「高頭仁兵衛」の版間の差分
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花火で怪我を負った話 タグ: ビジュアルエディター モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
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'''高頭 仁兵衛'''︵たかとうじんべえ/にへえ、[[1877年]][[5月20日]]<ref>{{cite news |url=https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%A0%AD%E4%BB%81%E5%85%B5%E8%A1%9B-1087421#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus |title=コトバンク﹁高頭仁兵衛﹂ |accessdate=2023-03-12}}﹁デジタル版 日本人名大辞典+Plus﹂</ref> - [[1958年]][[4月6日]]︶は、[[明治]]から[[昭和]]にかけての登山家。仁兵衛は高頭家当主の代々の名乗りで、本名は'''式'''︵しょく︶、号は義明。 [[新潟県]][[三島郡 (新潟県)|三島郡]][[深沢村 (新潟県)|深沢村]]︵現在の[[長岡市]]︶<ref>{{cite news |url=https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E9%A0%AD%E4%BB%81%E5%85%B5%E8%A1%9B-1087421 |title=コトバンク﹁高頭仁兵衛﹂ |accessdate=2023-03-12}}﹁日本大百科全書(ニッポニカ)﹂︵執筆者:徳久球雄︶及び﹁世界大百科事典﹂</ref>の[[豪農]]の家に生まれる。16歳の時、片貝まつりの花火を製造中に爆発、両手と右目に大怪我を負った<ref>{{Cite web |url=https://mag.japaaan.com/archives/213325/2 |title=﹁登山﹂を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛 |access-date=2024.5.16 |publisher=Japaan}}</ref>。治療のため上京し、二松学舎の塾長宅に寄宿して学んだ。[[1896年]]︵明治29年︶に父の死により19歳で家督を相続。翌年、北蒲原郡の豪農・[[市島邸|市島家]]の二女レイ子と結婚。幼少期は生来身体が弱かったが、片貝小学校までの通学のため毎日往復3里︵約12km︶の歩行で健康を取り戻した。そこで出会った恩師・[[大平晟]]の指導と、[[志賀重昂]]の﹃[[日本風景論]]﹄の影響で登山に目覚める。13歳で[[弥彦山]]、20歳の時には[[富士山]]、[[苗場山]]、[[八海山]]に登るなどしたが、危険を案ずる母親から登山を禁じられてしまう<ref name=岳人事典>山崎安治﹃岳人事典﹄﹁高頭仁兵衛﹂P.141</ref>。しかし、山に対する情熱は失われず、これをきっかけに地理書・紀行書・和歌・詩や文集など山に関するあらゆる資料を蔵一杯に蒐集し、それらを元に自作の妙録︵百科事典︶の制作を思い立ち、和紙に毛筆で書き上げた800枚を超える原稿を持って志賀重昂を訪れ、そこで紹介された[[小島烏水]]の勧めもあって博文館︵社長の[[大橋新太郎]]は高頭と同郷︶から[[1906年]]に﹃日本山嶽志﹄を刊行する<ref name=岳人事典/><ref name=日本人名大事典>近藤信行﹃日本人名大事典﹄︵現代︶﹁高頭仁兵衛﹂P.444</ref>。3,000部の自費出版であったが、本邦初の本格的な山の百科事典として好評を博し、日本の登山黎明期におけるバイブル的なポジションとして多くの岳人たちによって愛読された。初版のうち1,000冊は各地の図書館や学校などに寄贈された。 [[1905年]]、小島烏水が中心となって﹁山岳会﹂︵後の[[日本山岳会]]︶を結成した際に発起人7人のうちの1人に加わっただけでなく、その資金を提供し︵会の年会費が年1円の時代に毎年1,000円の資金援助を向こう10年間約束、これは実際には18年続いた︶、また機関誌﹃山岳﹄の発 [[1915年]]7月18日、[[銀山平]]から[[只見川]]に沿って遡上し、大白沢の不動滝上部から尾根を通って[[平ヶ岳 (群馬県・新潟県)|平ヶ岳]]に登頂︵2023年現在ここに登山道は無い︶。機関誌﹃山岳﹄第10年第3号に﹁平ヶ嶽登攀記﹂として登山記録を寄稿、存在を世に広く知らしめた。 15行目:
[[1958年]]没。享年81歳。菩提は故郷の深沢にある正林寺。生涯を郷土の発展と山岳振興に費やし、手元には何も残らなかったという。自著﹃御国の咄し﹄の書き出しで、﹁先祖から伝わりました家宝を売りましたり、家屋を壊しましたり致しまするから、それが訛りまして破家︵ばか︶となりましたものと確信を致して居りまする﹂と述懐している。 著作に﹃日本山嶽志﹄・﹃日本太陽暦年表﹄・﹃御国の咄﹄などがある<ref name="岳人事典" /><ref name="日本人名大事典" />。日本山嶽志は[[1970年]]に復刻版が出版されている。また日本山岳会の100周年記念で﹃新日本山岳誌﹄が作られ、その後も改訂を重ねている。 戦後、[[農地解放]]で高頭邸の一部は自治体に寄付され、現在は長岡市の河内公園として整備されている。地元住民によって頌徳碑が作られた︵碑文は[[石黒忠篤]]による︶。最寄りは[[信越本線]]・[[来迎寺駅]]。 |