「J・R・R・トールキン」の版間の差分
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'''ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン'''<ref group=* name=pron/>︵{{En|'''John Ronald Reuel Tolkien CBE'''}}、[[1892年]][[1月3日]] - [[1973年]][[9月2日]]︶は、[[イギリス|英国]]の[[文献学]]者、[[作家]]、[[詩人]]。﹃[[ホビットの冒険]]﹄と﹃[[指輪物語]]﹄の著者として知られている。 [[オックスフォード大学]]ローリンソン・ボズワース記念[[古英語|アングロ・サクソン語]]教授︵[[1925年]] - [[1945年]]︶、同大学マートン学寮英語英文学教授︵[[1945年]] - [[1959年]]︶を歴任。文学討論グループ﹁[[インクリングズ]]﹂のメンバーで、同会所属の英文学者[[C・S・ルイス]]や詩人[[チャールズ・ウィリアムズ]]と親交が深かった。[[カトリック教会]]の敬虔なる信者であった。1972年3月28日[[エリザベス2世]]からCBE︵[[大英帝国勲章]]コマンダー勲爵士︶を受勲した。 29行目:
== 生涯 ==
=== 家系 ===
父方の先祖のほとんどは職人であった。故郷は現在の[[ドイツ]]の[[ザクセン州]]にあたる。イギリスに渡ったのは[[18世紀]]ごろで、﹁迅速かつ熱心に、イギリス的に﹂なったという<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#165}}</ref>。苗字の{{En|''Tolkien'' 母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、[[バーミンガム]]に住んでいて、市の中心に店を持ち、[[1812年]]以来は === 子供時代 ===
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[[1900年]]、母は[[バプテスト教会|バプテスト]]であった親戚の猛烈な反対を押し切って[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]に改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=35}}</ref>ため、全ての財政援助は中断された。その母は[[1904年]]に[[糖尿病]]で亡くなり、トールキンは母が信仰の[[殉教]]者であったと思うようになった<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=44}}</ref>。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、[[C・S・ルイス]]を[[キリスト教]]に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが[[イングランド国教会|英国国教会]]を選び大いに失望することになった<ref>{{harvnb|Carpenter|1978}}</ref>。 孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムの[[エッジバーストン]]地区にある、[[バーミンガムオラトリオ会]]のフランシス・シャヴィエル・モーガン司祭であった。トールキンは[[w:en:Perrott's Folly|Perrott's Folly]]とエッジバーストン水道施設のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、[[エドワード・バーン=ジョーンズ]]と[[ラファエル前派]]の[[ロマン主義]]の絵画だった。[[バーミンガム美術館]]には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。 === 青年時代 ===
16歳のときに3歳年上の[[エディス・ブラット|エディス・メアリ・ブラット]]と出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った<ref name=bio02 />。 [[1911年]]に[[バーミンガム]]の[[キング・エドワード校]]に在学中、3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、﹁ 1911年夏、友人たちと[[スイス]]に遊びに行ったが、[[1968年]]の手紙<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=#306}}</ref>にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人が[[インターラーケン]]から[[ラウターブルンネン]]まで[[ミュレン]]を通り、氷堆石で野営しに冒険したことが、︵﹁石と一緒に松林まで滑ることを含めて﹂︶[[霧ふり山脈]]を越える[[ビルボ・バギンズ|ビルボ]]の旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、[[ユングフラウ]]と[[シルバーホルン]]︵﹁私の夢の銀枝山Silvertine︵ケレブディル︶﹂︶の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等は[[クライネ・シャイデック]]を越え[[グリンデルワルト]]へ向かい、[[グレッセ・シャイデック]]を過ぎて[[マイリンゲン]]に、さらに[[グリムゼル峠]]を越え、アッパー[[ヴァレー州]]を通り[[ブリーク]]、そして、[[アレッチ氷河]]と[[ツェルマット]]に着いた。 53行目:
21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には﹁自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した﹂とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=79,80}}</ref>。[[1913年]]1月に[[バーミンガム]]で婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 85}}</ref>、[[1916年]][[3月22日]]に[[イングランド]]の[[ウォリック (イングランド)|ウォリック]]で結婚した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p= 100}}</ref>。 [[1915年]]に優秀な成績で[[英語]]の学位を取り︵[[エクセター学寮]]で学んでいた︶[[オックスフォード大学]]を卒業した後に、[[第一次世界大戦]]に[[イギリス陸軍]]に従軍し、[[少尉]]として[[ロイヤル・フュージリアーズ連隊#ランカシャー・フュージリアーズ︵20︶|ランカシャー・フュージリアーズ]]の第11[[大隊]]に所属した<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=85}}</ref>。大隊は[[1916年]]にフランスに移動し、[[ソンムの戦い]]の間通信士官として、[[10月27日]][[塹壕熱]]を患うまで勤め、[[11月8日]]イギリスに戻った<ref>{{harvnb|菅原|1982|p=107}}</ref>。多くの親友も同然だった人たちも含め、自軍兵士たちが激戦で次々と命を落した。[[スタッフォードシャー]]、[[グレート・ヘイウッド]]で療養していた間に、﹁[[ゴンドリンの陥落]]﹂に始まる、後に﹃[[失われた物語の書]]﹄と呼ばれるものについての着想が芽生え始めたとされる。[[1917年]]から[[1918年]]にかけて、病気が再発したが、あちこちの基地での本国任務ができるほど回復して、中尉に昇進した。 ある日[[キングストン・アポン・ハル]]に配置されたとき、夫婦で[[ルース]]近くの森に行き、そして、エディスは彼のためにヘムロック === キャリア ===
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ペンブロークにいる間に﹃[[ホビットの冒険]]﹄と﹃[[指輪物語]]﹄の﹃[[旅の仲間]]﹄と﹃[[二つの塔]]﹄を書く。また[[1928年]]、[[:en:Mortimer Wheeler|Mortimer Wheeler]]が[[グロスターシャー]]、[[:en:Lydney Park|Lydney Park]]の[[:en:Asclepieion|Asclepieion]]︵古代ローマの診療所︶の発掘を行うのを助けた<ref>[[#Tolkien 1932|Tolkien 1932]]</ref>。学術刊行物の中では特に[[1936年]]に講演され、翌年に出版された“[[:en:Beowulf: the Monsters and the Critics|''Beowulf'': the Monsters and the Critics]]”は﹃[[ベーオウルフ]]﹄研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた<ref>{{harvnb|菅原|1982|pp=165-167}}</ref>。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの﹃ベーオウルフ﹄に関する論文は﹁﹃ベーオウルフ﹄批評の大きな転機として広く認識された﹂と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。<ref name=our />。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で﹃ベーオウルフ﹄を﹁﹃ベーオウルフ﹄は私の最も評価する源泉の一つである﹂と高く評価した<ref>{{harvnb|Carpenter|Tolkien|1981|loc=no. 25, p.31}}</ref>。 実際に﹃指輪物語﹄には、﹃ベーオウルフ﹄からの多くの影響が見出される<ref name=triode/>。これを書いた頃は、﹃ベーオウルフ﹄の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を﹃ベーオウルフ﹄の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した︵逆に、Finnesburgの戦いの挿話および古英詩断片のように、﹃ベーオウルフ﹄やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた︶<ref>{{Harvnb|Tolkien|1982}}. 主に Alan Bliss の Introduction の pp. 4-5 ほか、''Eotena'' の語義を幻想的に解釈して﹁巨人﹂の意味で解するか、﹁ジュート族﹂を表す語と解釈するかについては ''Finn and Hengest'' 内の随所で議論される。</ref>。 [[1945年]]にはオックスフォードのマートン学寮に籍を置くマートン記念英語英文学教授となり、[[1959年]]に引退するまでその職位にいた。[[1948年]]に﹃指輪物語﹄を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代には[[ 妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。ジョン・フランシス師︵[[1917年]][[11月16日]]-[[2003年]][[1月22日]]︶、マイケル・ヒラリー・ロウエル︵[[1920年]][[10月]]-[[1984年]]︶、[[クリストファ・トールキン|クリストファ・ジョン・ロウエル]]︵[[1924年]][[11月21日]]︶、そしてプリシラ・アン・ロウエル︵[[1929年]]︶である。 [[W・H・オーデン]]は﹃指輪物語﹄に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは[[1971年]]の手紙で、 === 引退と晩年 ===
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{{Reflist|colwidth=30em|group=*|refs=
<ref group=* name=pron>'''Tolkien''' の発音については ''The Return of the Shadow: The History of The Lord of the Rings, Part One'' [Edited by] Christopher Tolkien, London: Unwin Hyman [25 August] 1988 (The History of Middle-earth; 6) ISBN 0-04-440162-0 に拠れば﹁'''トル'''キーン﹂ {{IPA|tɒ́lkiːn}} ︵太字に[[アクセント]]︶。アクセントの位置は完全に一致している訳ではなく、トールキン家には第二音節にアクセントを置いて﹁トル'''キーン'''﹂ {{IPA|tɒlkíːn}} と発音していた人もいた。<br />﹃''小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版'' ﹄ ISBN 4-09-510101-6 に拠れば[[イギリス英語|英音]]で﹁'''トル'''キーン﹂ {{IPA|ˈtɒlkiːn}} 、[[アメリカ英語|米音]]で﹁'''トウル'''キーン、'''タル'''キーン﹂ {{IPA|ˈtoʊlkiːn, ˈtɑl-}} 。<br />﹃''研究社英米文学辞典'' ﹄ ISBN 4767430003 では'''トルキーン'''と記されており、また﹃''﹁熊谷市﹂と﹁トルキーン﹂――固有名詞の読み方の変化に関する一考察'' ﹄︵[[鈴木聡]]、﹃''月刊言語'' ﹄2005年1月号︵大修館書店︶掲載︶によれば'''トーキン'''と呼ぶ人もある。<br />また、'''Reuel''' の発音については﹃''小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版'' ﹄︵前掲︶に拠れば﹁'''ルー'''エル﹂ {{IPA|ˈɹuːəl}} 。</ref> <ref group=* name=Rashbold>因みに﹁ラッシュボールド︵Rashbold︶﹂という苗字が、﹃''[[w:en:The Notion Club Papers|The Notion Club Papers]]''﹄という作品で学部学生ジョン・ジェスロ・ラッシュボールドとペンブロークの老教授ラッシュボールドの二人の人物名として登場するが、それはトールキンという名前のもじりである。''Sauron Defeated'', page 151, ''Letters'', 165)。</ref> <ref group=* name="中つ国">[[中つ国 (トールキン)|中つ国]]︵Middle-Earth︶は古英語﹁ミッダンイェアルド︵middanġeard︶﹂から直接、あるいは古北欧語﹁[[ミズガルズル]]︵Miðgarðr︶﹂をからの借入が混じって、中世から現代まで音声学的変遷を経て受け継がれた単語で、﹁天と地の間にある、人間が住むことができる土地﹂を意味する。この語はトールキン以外に[[ウォルター・スコット]]や[[ナサニエル・ホーソーン]]なども作品中で使用している。</ref> <ref group=* name=hemlock>田舎の方言で、トールキンは[[花序|散形花序]]の白い花を持つ毒ニンジンに類似した様々な植物をhemlock'ドクニンジン'と呼んだ。エディスが踊った場所に咲く花は、おそらくコシャク(Anthriscus sylvestris)かニンジン(Daucus carota)だろう。John Garth ''Tolkien and the Great War'' (HarperCollins/Houghton Mifflin 2003) and Peter Gilliver, Jeremy Marshall, & Edmund Weiner ''The Ring of Words'' (OUP 2006)を参照のこと。</ref> |