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=== 輸送機設計研究協会発足 ===
[[File:YS-11 Wind tunnel model.jpg|thumb|250px|YS-11の設計のために東京大学航空学科で使用された[[風洞]]模型([[国立科学博物館]]の展示)<ref>{{Cite web
[[1956年]]︵昭和31年︶、通産省重工業局航空機武器課の[[赤澤璋一]]課長の主導で国産民間機計画が打ち出された<ref>{{Cite web|和書|title=日本機械学会 交通・物流部門|url=https://www.jsme.or.jp/tld/htdocs.new/events/yakushima/y8-8.html|website=www.jsme.or.jp|accessdate=2020-03-09}}</ref>。通産省は各航空機メーカーと個別会談を行い、各社から賛同を得たことから、[[日本航空宇宙工業会|日本航空工業会]]に中型[[輸送機]]計画案を提出するように要請した。日本航空工業会がこの要請で開発案を提出したことから、通産省は中型輸送機計画開発の5カ年計画として、1957年︵昭和32年︶度予算で8,000万円を要求したが、第1次から第3次折衝まで予算請求が認められず、1957年︵昭和32年︶1月20日、[[水田三喜男]][[通商産業大臣]]と[[池田勇人]][[大蔵大臣]]の大臣交渉を経て、鉱工業技術研究補助金の名目で3,500万円の予算を獲得した<ref name="air_liner_club"/>。 同年5月、理事長に新三菱重工副社長の[[荘田泰蔵]]が選任され、専任理事に[[木村秀政]][[東京大学]][[教授]]を迎えた﹁[[財団法人]] 輸送機設計研究協会﹂︵通称﹁輸研﹂︶が[[東京大学]]内に設立され、小型旅客輸送機の設計が始まった。輸研に参加したメーカーは新三菱重工業、川崎航空機、[[富士重工業]]︵現・[[SUBARU]]︶、新明和工業、[[日本飛行機]]、[[昭和飛行機工業|昭和飛行機]]の[[機体]]メーカーと、[[住友金属]]︵現・[[住友精密工業]]︶、[[島津製作所]]、[[日本電気]]、[[東京芝浦電気]]︵現・[[東芝]]︶、[[三菱電機]]、[[東京航空計器]]の[[部品]]メーカー各社であった。複数企業の[[ジョイント]]となった理由は、国内新型航空機開発と言う大型[[プロジェクト]]を、特定の企業一社に[[独占]]的に任せることで起こる他社の反発を懸念したためである<ref name="air_liner_club"/>。 輸研には、[[零式艦上戦闘機|零式艦上戦闘機︵ゼロ戦︶]]や[[雷電 (航空機)|雷電]]、[[烈風]]を設計した[[三菱重工業|新三菱]]の[[堀越二郎]]、[[中島飛行機]]で[[一式戦闘機|一式戦闘機﹁隼﹂]]を設計した富士重工業の[[太田稔]]、先述の[[川西航空機]]で[[二式飛行艇|二式大艇]]や[[紫電改]]︵及び[[紫電]]︶を設計した新明和工業の[[菊原静男]]、川崎航空機で[[三式戦闘機|三式戦闘機︵飛燕︶]]や[[五式戦闘機]]を設計した川崎重工業の[[土井武夫]]といった戦前の航空業界を支えた[[技術者]]が参加、[[設計]]に没頭した。航空業界ではこれに[[航研機]]の製作に携わった<ref>{{Cite web 設計案として、日本の国内線需要を勘案して1,200mの[[滑走路]]で運用できるもの、航続距離は500[[マイル]]から1,000マイル︵800[[キロメートル|km]]-1,600km︶、整備性から低翼、経済性から60席以上、双発[[ターボプロップエンジン]]、開発期間は4年、開発費用は30億円の基本設計で固まった。当初、開発期間は5年であったが、当時国内の旅客機の残余寿命が3-4年の機体が多く、代替時期を勘案すれば5年では長過ぎるとの運輸省の主張から4年に短縮された<ref name="air_liner_club" />。 136行目:
[[9月9日]]には全日空に[[リース]]された2号機︵JA8612︶が、[[アテネ]]から運んできた[[1964年東京オリンピック|東京オリンピック]]の[[オリンピック聖火|聖火]]を日本全国へ空輸し、日本国民に民間航空復活をアピールした。 この聖火輸送に因んでその後、全日空が導入したYS-11には機首に﹁オリンピア﹂の[[愛称]]がマーキングされたが、機体や全日空の[[時刻表]]には﹁YS-11﹂の型式名や機種名は記されていない。表面上は聖火輸送の実績に由来した名称と説明されていたが、当時の日航製の開発が遅れていたことや、日航製の経営資金の枯渇から経営不安説も流れ、[[倒産]]した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う事態を避ける思惑が全日空にあったと言われている。他にも、アメリカの最有力顧客となった[[ピードモント航空]]も、当時のアメリカでは日本製品の信頼性が高くなかったことや、一部の層には[[第二次世界大戦]]中の反日感情がまだ残っていたことから、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表には﹁ロールスロイス・プロップジェット﹂と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行わなかった<ref name="nakamura"/><ref name="air_liner_club" />。 [[1965年]](昭和40年)[[3月30日]]に量産1号機(2003)を運輸省航空局に納入、4月からは航空各社への納入が始まった。9月にはFAAの型式証明も取得して、輸出の体制が整った。
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その後、YS-11の定期運航は日本国内航空に続き、1965年︵昭和40年︶5月10日に東亜航空が[[広島西飛行場|広島]] - [[大阪国際空港|大阪︵伊丹︶]]線、大阪 - [[美保飛行場|米子]]線に就航、同年5月31日に[[南西航空]]がリース契約で受領し、同年6月8日に[[那覇空港|那覇]] - [[宮古空港|宮古]]線に就航した。同年7月29日には全日空が受領し、同年9月20日に大阪 - 高知線で就航した。南西航空がリース契約となったのは、[[本土復帰]]前の沖縄では航空機登録制度が未整備で、南西航空への売却であっても表面上はリース契約とせざるを得なかったからである。南西航空は本土返還後に正式に購入した。時刻表では主に'''YS1'''または'''YS'''と表記されていたが、[[全日本空輸]]の便では愛称﹁オリンピア﹂の頭文字'''O'''と表記されていた。 遅れて[[1969年]]︵昭和44年︶4月1日に、日本航空が日本国内航空よりウエットリースで[[福岡空港|福岡]] - [[釜山広域市|釜山]]間で初の国際線の就航を始めて、当時の主要国内航空会社がYS-11の定期旅客運航を行ったことになった。日本航空では同路線の就航を当時所有する中で最小の機体の[[ボーイング727]]で計画していたが、同じ路線を運航する[[大韓航空]]の機材がYS-11であったことから、機材に差が出ることを、見栄の面から嫌った[[韓国]]政府の意向から日本航空も同じとせざるを得なくなり、仕方なく日本国内航空から調達したものであった<ref name="air_liner_club" />。 YS-11-100は運航を重ねるにつれ、主脚の異常、脚開閉扉の設計ミス、外板継ぎ目からの[[雨漏り]]による電気系統不良などの欠陥が判明し始めた。そのたび、日航製職員や航空会社の[[整備士]]は改修のため[[徹夜]]の連続となった。この経験は、[[1967年]]︵昭和42年︶のYS-11A︵2050以降︶の設計に生かされた。 213行目:
これらの9月30日のファイナルフライトに使用された機体はJA8766とJA8768で、JA8768は徳島から福岡への飛行後に鹿児島へ、JA8766が沖永良部への最終フライトを行った︵ちなみにこの機体は﹁レッド&グリーン塗装時代﹂には﹁[[徳之島|とくのしま]]﹂、つまり隣の島の愛称がついていた︶また、この機体の[[操縦桿]]を握ったのは航空雑誌や日本エアコミューターからも﹁ミスターYS﹂の愛称で親しまれていた本村栄一で、総飛行時間2万時間以上のうち、23年間をYSに捧げた人物であり、彼もこのフライトを最後に引退した。奇しくもYSの座席数と同じ64歳での出来事であった。運航終了後のYSについて保存の声も根強かったものの、機体性能には問題なく、十分に現役で飛べるため、2機とも[[フィリピン]]へ売却された。 民間定期路線のYS-11最終便となった、[[日本エアコミューター]]の沖永良部空港発鹿児島空港行は[[2006年]]︵平成18年︶[[7月30日]]の発売開始から3分で完売した、しかしその後[[インターネットオークション]]に﹃2006年︵平成18年︶9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券﹄1枚が出品されるという出来事があった。インターネットオークション [[2007年]](平成19年)8月には[[新幹線0系電車]]などと共に[[機械遺産]](13番)に認定された。
<!--* また、有限会社バイク技術研究所によって元日航製のOBが設計した「YS-11」という軽量折り畳み自転車が11月に発売されることも発表された。一旦コメントアウト-->
[[国土交通省]][[航空局]]が所有していたJA8709︵製造番号2084。中古機を航空局が取得し1985年に登録︶は2007年4月に用途廃止され、長らく[[東京国際空港]]︵羽田空港︶にて保管されていたが、[[2014年]]12月に一般競争入札にかけられ、[[大阪府]][[八尾市]]の航空機部品販売ならび整備会社[[エアロラボインターナショナル]]が落札した<ref name="nhknw141225">{{Cite web|和書|url=http://www9.nhk.or.jp/nw9/marugoto/2014/12/1225.html|title=YS-11 スクラップの危機 回避|publisher=[[日本放送協会|NHK]]ONLINE ニュースウオッチ9特集まるごと|accessdate=2015-1-13}}</ref><ref name="fnnnw141217">{{Cite web その時点では本機は未だ完全な修復には至っておらず、エアロラボインターナショナルは引き続き整備を継続すると共に再飛行と本格的な動態保存に向けた寄金を募っていた<ref>{{Cite web|和書|title=元航空局のYS-11、高松へフライト 修復すべて終わらず|url=https://www.aviationwire.jp/archives/62107|website=Aviation Wire|accessdate=2019-08-15|language=|publisher=}}</ref>。その後は同社が時折エンジンを動かすなどして整備していたが、高松空港が4月に民営化し、民営化に伴って定められた空港の供用規定で機体を駐機できる期間を上限10日間とする項目が新設され、4月中旬からは違反状態になり運営会社より離陸を求められ高松空港での保管が難しくなった。そのため、[[能登空港]]に隣接する日本航空学園の敷地内に移して保管されることになった。なお、同学園は保管場所の無償提供を申し出ている。2018年5月11日午前11時に離陸して付近を約30分間試験飛行した後、能登空港へ向けて再び飛行し同日に着陸した<ref>{{Cite web|和書|title=民間で唯一飛行可能なYS11、能登空港に到着 : 社会 : 読売新聞︵YOMIURI ONLINE︶|url=https://archive.li/w2Slo|website=archive.li|date=2018-05-12|accessdate=2019-08-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|title=YS11‥3年ぶり離陸へ 高松空港から能登空港に - 毎日新聞|url=https://archive.li/4hyTX|website=archive.li|date=2018-05-12|accessdate=2019-08-15}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkan.co.jp/articles/view/00473003|title=︻電子版︼国産プロペラ旅客機﹁YS11﹂、能登空港で保管へ 高松から離陸︵更新︶|accessdate=2019-03-24|publisher=日刊工業新聞|date=2018-05-11}}</ref><ref>{{Cite news|url = https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000014655|title = YS11、能登へようこそ 高松空港から移動|publisher = 北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ︵北國新聞︶|date = 2018-05-12|accessdate = 2019-09-11}}</ref>。 === その後の国産旅客機プロジェクト ===
{{main|YX|YSX|ボーイング767|ボーイング777|C-1 (輸送機)}}
[[1960年代]]頃、官民共同事業体である[[日本航空機製造]]はYS-11開発の実績を基に[[防衛庁]]向け[[C-1 (輸送機)|'''戦術輸送機C-X''']]の計画を進めていたが、国会で上記の赤字問題や民間機開発事業による[[軍用機]]の開発が指摘された為、「C-X」は[[川崎重工業]]による開発に変更され[[1970年]](昭和45年)に「[[C-1 (輸送機)|C-1]]」が初飛行した。
事業を移管された民間事業体の[[日本航空機製造|日本民間輸送機開発協会]]では'''新型機「[[YX]]」'''開発計画が進められたが、その開発費は1000億円規模と見られ、とても日本一国では負担に耐えられないとして国際共同開発の可能性を視野に入れていた。
[[2015年]](平成27年)[[11月11日]]には、かつて53年前にYSが初飛行を行ったのと同じ名古屋飛行場においてMRJ(当時)が初飛行に成功し、9年ぶりに国産旅客機が日本の空を舞った。▼
世界的にも[[1970年代]]には[[ニクソン・ショック]]や[[オイルショック]]等で開発費の高騰に耐え切れなかった欧米の中小航空機メーカーが次々と淘汰されていき、生き残った欧州企業の共同事業として[[アエロスパシアル|仏]]・[[ダイムラークライスラー・エアロスペース|独]]・[[ホーカー・シドレー|英]]・[[フォッカー|蘭]]・[[コンストルクシオネス・アエロナウティカス S.A.|西]]共同の[[エアバス|'''エアバス・インダストリー''']]社による'''[[A300]]'''の開発が進められていた。
国内外から発注を受けるなど期待を寄せられていたが、計6回に渡る納期延期の末、[[2020年]](令和2年)には事業は事実上の凍結状態に、[[2023年]][[2月7日]]には今後の採算が見込めないことを主な理由として開発中止となった<ref>{{Cite web |title=国産ジェット旅客機「MSJ」の開発中止…三菱重工業、採算見込めず |url=https://www.yomiuri.co.jp/economy/20230206-OYT1T50153/ |website=読売新聞オンライン |date=2023-02-06 |access-date=2023-02-07 |language=ja}}</ref>。▼
<!-- ただし、その後[[2020年]](令和2年)よりMitsubishi SpaceJetの事業は事実上の凍結状態となっており、就航の見通しは立っていない。 -->▼
この頃、[[ベトナム戦争]]等で体力を失った'''[[ボーイング]]'''は独自計画の'''「7X7」中型双発旅客機'''の開発計画及び、[[イタリア]]の[[アエリタリア]]との中型機の共同開発計画を一体化し、国際共同開発計画として提案した。当初は政府間協議等で開発割合を高くする事も協議されたが、[[1977年]](昭和52年)に発覚した[[ロッキード事件]]の影響によって最終的な開発割合は米70%・日15%・伊15%とされ、[[1981年]]に'''YX/7X7計画'''は「'''[[ボーイング767]]'''」として結実した。これは日本の技術水準を高めることとなり、ボーイングからも品質の高さを賞賛された。
[[三菱重工業]]は、[[2006年]](平成18年)[[5月31日]]に開催された[[経済産業省]]主催の民間機開発推進関係省庁協議会において、YS-11を業務運用している防衛庁・国土交通省・海上保安庁に対して、開発段階であったMJ(現在のMitsubishi SpaceJet)の採用を要望した。これに対して各省庁は「ニーズが合えば購入する」との認識を示したことから、官公庁ではSpaceJetの開発経過を観察しながら、後継機選定を行うものと思われる。▼
[[1979年]]、YX計画で一旦断念された[[YX#次期旅客機YS-33の研究|YS-33構想]]を基にした'''日本独自の新型機[[YXX]]'''の開発計画に対しても、ボーイングは「[[ボーイング7J7|'''7J7''']]」の共同開発を持ちかけたが、こちらはエンジンの開発困難から実現しなかった。
しかし、ボーイングは新たな'''「7-7」中型旅客機'''計画への参加を打診し、こちらは[[1994年]](平成6年)に「'''[[ボーイング777]]'''」として実現した。
[[2001年]](平成13年)、[[C-2 (航空機・日本)|次期輸送機(C-X)]]と[[P-1 (哨戒機)|次期対潜哨戒機(P-X)]]について、再び川崎重工業が担当する事が決定した。
なお、[[日本航空機製造]]は1981年に解散が決議され、[[1982年]](昭和57年)に業務を全て[[三菱]]に引き継いで解散した。
{{main|YSX}}
[[1991年]](平成3年)、「YXX」開発計画の次となる「[[ターボファンエンジン]]の双発小型民間機(YSX)開発」が計画された。これは民間主導の補助事業とされ、欧州企業の様々な新航空機の計画とはコンセプトが異なるため共同開発の話は成立せず、「[[ボーイング7J7|'''7J7''']]」を共同開発してきたボーイングに打診した。しかし、この計画は前述の通り中止となり、更に[[1996年]]に[[マクドネル・ダグラス]]を吸収合併して、当時開発が進んでいた[[ボーイング717|MD-95]]に注力する事としたため、YSX開発計画は暗礁に乗り上げた。
[[2002年]](平成14年)8月末、[[経済産業省|経産省]]は「30席から50席クラスの小型ジェット機」計画(計画名「環境適応型高性能小型航空機」)を発表したために実質的にYSX計画は終了し、三菱がこの計画に応募した。
▲ ▲その後MRJとして[[2014年]](平成26年)にロールアウトされ、[[2015年]](平成27年)[[11月11日]]には、かつて53年前にYSが初飛行を行ったのと同じ名古屋飛行場において
YS-11に対しては正式に発注せずに終わった日本航空(JAL)も32機の確定発注をしていた。国内外から発注を受けるなど期待を寄せられていた。
▲ ▲<!-- ただし、その後[[2020年]](令和2年)よりMitsubishi SpaceJetの事業は事実上の凍結状態となっており、就航の見通しは立っていない。 -->
== 機体 ==
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それでも日本の航空業界側は﹁日本の空は日本の翼で﹂という意識のもと、改修に改修を重ね、機体を実用水準に高めた。航空業界によって使える機体に育ったとも言える。やがて[[日本エアシステム|東亜国内航空]]では日本国外に輸出された機体を購入しなおすなど、YS-11に対する信頼性は大いに上がった。 機齢が50年を超えた機体も === 頑丈さと過大重量 ===
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=== 操縦性 ===
操縦系統は油圧2系統で、緊急時のためにワイヤー1系統、合計3系統としで旅客機としての安全性を確保していた。現代の旅客機では油圧4系統などとしているが、日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故の時、﹁油圧系統ばかりとせずワイヤー1系統でも残しておけば、油圧がすべて抜け落ちても、墜落は免れたのでは・・・﹂と悔やまれた。もちろん自動操縦装置も装備されており巡航高度に達すると自動操縦に切り替えるのが常識であった。 短距離離着陸(STOL)性能を重視して1200mの滑走路で運用可能となっていた。そのためグライダーに象徴される滑空性能に優れ、フラップ、スラットなどの高揚力装置に優れた後のボーイング727などに降下速度で劣ることとなった。これは巡航高度での飛行を早く離れなければならないこととなり燃費などで東京ー大阪などの幹線航路でハンディとなっていた。旅客数の拡大とともに、より大型のジェット旅客機の幹線航路進出を許すこととなり、YS-11はローカル航路に限定されることとなってしまった。
つまりYS-11の2倍ほどの旅客人数を運べるジェット旅客機が、上昇下降という操縦性能において、高揚力装置により経済性に優れることとなりYS-11の国内幹線路線での活躍を阻むこととなってしまった。
YS-11の設計人は「主翼前縁は触ってはならない」とした意識でいたため、前縁スラットなどの高揚力装置の採用まで踏み込めていなかった。その意味では「旅客機の経済性」をよく理解できずに「軍用機の感覚であった」と批判されても仕方がない。しかし一部で言われてきた「操縦系統が油圧を採用せずワイヤーのみであった(緊急時用に装備)」など操縦系統装備で劣っていたわけではなかった。
これは開発初期の市場調査(MR:日本航空機製造の内部では当時ORと称していた)の失敗であり、結果として技術的に後れを取った形となってしまった。というよりは、やはりダグラス、ボーイングと言った、当時でもグローバル企業のMRを含めた総合的技術力が数段先行していたこととなる。
結果として後れを取った性能ではあるが、滑走路が短かった当時のローカル空港の活用を促進するSTOL性能には優れていたといえる。
離着陸に関してはパイロットから「上昇もしないんですけど、降りるのも降りてくれない」と評されており<ref name="otakuma" />、主翼が長めであるため滑空性能が強すぎることが指摘されている<ref name="otakuma" />。
このように、後にローカル空港の滑走路も延長された時代では特有の問題を抱えてい
=== 降着装置 ===
YS-11の主脚は[[コンベア240]]シリーズの主脚を[[住友精密工業]]がコピーしたものであり、構造はほぼ同一である<ref name=":0">{{Cite book|和書 |title=YS-11エアラインの記録 : 国産旅客機を現場で育てた整備技術者、パイロット、スチュワーデス |date=1998.5.21 |year=1998 |publisher=日本航空技術協会 |page=321}}</ref><ref>{{Cite book|和書 |title=わがヒコーキ人生 |date=2013.7 |year=2013 |publisher=粂喜代治 |page=249 |author=粂喜代治}}</ref>。コンベア240シリーズに比べてYS-11のほうが機体重が重いため、相対的に過負荷となった。前述の﹁頑丈さと過大重量﹂の項でも触れられている通り、海上自衛隊員に対するインタビューでも、タイヤ交換が頻繁に必要であったことが語られている。 また、製造時にコンベア社のマニュアルの﹁ネジを1/4回転増し締め﹂という意味の英語を誤読し﹁1/4回転緩め﹂てしまっていたために、ローラー部が噛み込みを起こし、主脚が降りなくなる事故もあった<ref>{{Cite book|和書 |title=テストパイロットの証言 戦後国産機開発の苦闘と教訓 |date=1994.7.2 |year=1994 |publisher=酣燈社 |page=84}}</ref><ref>{{Cite web 脚部のオーバーホールはメーカーの住友精密工業に委託されたが、当時まだ民間旅客機の脚部の設計経験がほとんどなかった同社は、腐食除去後にどの程度の部材肉厚であれば許容可能かについての判断ができず、﹁製造時のリミットを割ることは強度上の責任が持てない﹂としてオーバーホールの度に主脚柱を交換し、これによりYS-11を運用していた各社は大きな出費を強いられた。アメリカの航空会社で価格競争の激しい立場にあったピードモント航空は、﹁オーバーホールで主脚柱が交換されるのは信じられない﹂﹁日本のエアラインはなぜ重大問題として機体メーカーの日航製を追求しないのか﹂と、これによるコスト増を非常に問題視していた<ref name=":0" />。 307 ⟶ 339行目:
[[File:NAMC YS-11A, Phuket Air AN0923039.jpg|thumb|250px|プーケット航空のYS-11A-200(2005年)]]
* 生産機体番号 - 2050 - 57、59 - 69、75 - 85、90 - 103、108 - 121、123、126、127、130 - 138、141 - 149、152、154、155、157 - 159、163 - 168、175 - 178
YS-11Aのうち、標準形式の旅客型である。95機が生産された。最初の発注者であるピードモント航空はYS-11-100をリース購入していたが、頑丈な機体を気に入ったものの、機内設備などがアメリカの標準的な機内サービスの水準を満たすには程遠く、日航製は大幅な改良提案を受け入れて対応した。 ピードモント向けは205型で、電子装置を一新した。アメリカの基準に合わせるためオートパイロットを[[スペリー]]製とし、フライトディレクターシステム、[[エア・データ・コンピュータ]]、[[電波高度計]]を追加し、[[アメリカ連邦航空局]]︵FAA︶の[[計器着陸装置|カテゴリーII着陸]]の追加証明を獲得した。さらに[[航空計器|計器類]]を刷新、[[インバータ]]の増設、左プロペラにブレーキ設置、前脚[[ステアリング]]を50度から60度に変更、床下貨物室を後方へ60cm拡大した。機内設備はアメリカの航空会社の標準とし、前方乗降口を[[非常口|非常用]]に使用するため[[客室乗務員]]席を前方に増設、[[ギャレー]]︵調理設備︶装備もアメリカの水準に合わせたものを、トイレもジェット機で使う[[水洗式便所|水洗]]式に、洗面台には給湯器を設置、座席を米国製に変更し、前方にコートルームを増設した。当時は日本製品の信頼性が高くなく、アメリカ国内の一部の層には[[第二次世界大戦]]での反日感情がまだ残っていたこともあって、前述の通り、ピードモント航空では乗客の心理を配慮して[[広告]][[宣伝]]や[[時刻表]]には﹁ロールスロイス・プロップジェット﹂と表記し、日本製やYS-11の表示は行わなかった。 ピードモントは205型を20機採用、続いてクルゼイロ航空が202型を8機、[[VASP航空|ヴァスプ航空]]が211・212を6機、[[オリンピック航空]]が220を6機、[[チャイナエアライン|中華航空]]が219を2機、ポーラック・インドネシア航空が222を1機採用した。また、国内では全日空が208・213をリース含め計29機で最大のカスタマーとなり、東亜航空が217・221を11機、南西航空が209・214を5機、[[海上保安庁]]が207を2機、[[海上自衛隊]]が機上作業機T-Aに206を4機、[[航空自衛隊]]が飛行点検機︵FC︶に218を1機採用した。また、リースとしていくつかの航空会社に引き渡された。 501 ⟶ 533行目:
:: YS-11Cを2機﹁スーパーYS﹂化改造した電子測定機(電子情報収集機)。後にEL型2機も同型に改造して計4機。機体上下に二つずつのドームを付けているのが外見上の特徴︵冷却機材収容部もEA同様右側のみ︶[[2006年]]の北朝鮮テポドン・ノドン・スカッドミサイル発射事件の直前にはこの機体が米空軍のRC-135B電子偵察機とともに監視活動を行った。 ; YS-11FC
: 航空自衛隊の飛行試験機。FCは飛行点検機を意味する Flight Checkerの略。胴体には[[超短波|VHF]]及び[[TACAN]]アンテナを増設し、機内に航空通信設備、[[航空交通管制]]施設を検査する自動点検装置、[[計器着陸装置]]、通信装置、グラフィックレコーダー、機上録音機、信号観測用[[オシロスコープ]]などなどの無線機材が詰め込まれ、補助電力装置 (APU) を搭載して電源としている<ref>{{Cite web|和書|title=主要装備 YS-11FC|防衛省 [JASDF] 航空自衛隊|url=https://www.mod.go.jp/asdf/equipment/shienki_tenkenki/YS-11FC/index.html|website=www.mod.go.jp|accessdate=2019-08-15}}</ref>。新造1機、YS-11Pの改造2機の計3機。後継機として[[セスナ サイテーション・ラティチュード|サイテーション680A]]が導入された。2021年3月17日に1151号機の退役を以って<ref name="mainichi20210317" /><ref name="kyodo20210317" />、同型の全てが用途廃止となった。これにより日本国内から、﹁ダートエンジン﹂として親しまれたオリジナルエンジンで4枚プロペラの現用機が姿を消すことになった<ref name="aviation20210318">{{Cite news|url=https://www.aviationwire.jp/archives/222839|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210318041426/https://www.aviationwire.jp/archives/222839|title=空自YS-11FC、半世紀飛びラストフライト 最後のダートサウンド|newspaper=Aviation Wire|date=2021-03-18|accessdate=2021-03-18|archivedate=2021-03-18}}</ref>。 ; YS-11NT
: YS-11Cを改造した航空自衛隊の航法訓練機。NTは航法訓練機を意味する Navigation Trainerの略。自衛隊の航法士を育成する機体で、航法/通信アンテナや[[六分儀]]が設置されている。1機。 564 ⟶ 596行目:
; YS-11T-A
: 海上自衛隊の機上作業訓練機。[[対潜哨戒機]]に搭乗する乗務員を養成する機体で、胴体下部に巨大レドームを設置し、低高度任務が多いことから[[与圧]]室を廃し、空調は機器の冷却に使用されている。このため夏場は蒸し風呂となり、気圧差で耳が慣れるのに時間がかかるなど特有の問題を抱える<ref name="otakuma" />。補助電力装置 (APU) を搭載して電源としている。 : 当初はP-2Jや[[PS-1]]の乗員を育成するため、哨戒機器もP-2Jの物を用意した。{{要出典|範囲=後に[[P-3 (航空機)|P-3C]]が導入されると、T-Aの機器も合わせて更新された。|date=2021年2月}}2011年︵平成23年︶5月31日、全機用途廃止となった<ref>{{Cite web|和書|title=自衛隊ニュース2011年7月15日(4)|url=http://www.boueinews.com/news/2011/20110715_4.html|website=www.boueinews.com|accessdate=2019-08-15}}</ref>。これにより同年6月1日、第205教育航空隊は解隊した。 {| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
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=== 海上保安庁 ===
[[Image:JCG YS-11 Ojiro.jpg|thumb|250px|おじろ2号]]
[[海上保安庁]]では、[[1965年]]︵昭和40年︶の[[マリアナ海域漁船集団遭難事件]]により、多数の船員を救助できなかった痛手を教訓とし、﹁行動半径700[[海里]]において2.5時間の低空捜索能力を有する﹂長距離捜索救難機を導入することになった<ref name="mayama"/>。採用されたYS-11Aは洋上での長距離飛行に備え、航法通信設備、[[六分儀]]、偏流計などの装備を追加、また、胴体後部には直径800mmの球形見張り窓︵バブルウィンドウ︶と横向き見張り窓、胴体下面にはシーマーカーなど標識投下装置2本、[[救命いかだ]]など物資投下口も設置された。翼内バグタンクのほかに815L入り胴体タンクを3個追加し、1,300kmの空域を低空で2時間半捜索できるようになった。LA701は尾部に磁気観測ヘッドを納めた強化プラスチック製の磁気探査装置ブームが装備されており、水路の[[地磁気]]と真方位、磁方位を定期観測していた。 [[1969年]]︵昭和44年︶3月20日、羽田航空基地にLA701号機が導入され、同年には根室沖で発生した船舶火災事件で15名の救出に成功するなど、早くも航空救難に活躍した<ref name="mayama"/>。[[1971年]]︵昭和46年︶11月にはLA702号機が就役し、2機体制となった。その後、新海洋秩序による[[排他的経済水域]]の設定に伴う業務拡大で、[[1977年]]︵昭和57年︶度に[[全日本空輸|全日空]]の中古リース機を3機購入し直し、羽田・千歳・那覇に5機が配備され、日本の領海をカバーする体制が完備された。千歳と那覇の4機には[[1991年]]︵平成3年︶5月に﹁おじろ﹂﹁しゅれい﹂の名が付けられたものの、羽田のLA701だけは名称がなかったが、[[1995年]]︵平成7年︶5月に﹁ブルーイレブン﹂と名づけられた。[[2000年]]︵平成12年︶からは﹁JAPAN COAST GUARD﹂のロゴ、次いでマスコットの﹁[[うみまる]]﹂シールも貼られた。 605 ⟶ 637行目:
海上保安庁のYS-11Aは、救難や航路監視、領海警備、海底火山の観測などのほかにも、羽田所属機は[[特殊救難隊]]の空輸や[[南鳥島]]・[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]ロランC局の職員の送迎や物資運搬に、千歳所属機は冬季の[[流氷]]観測にも運用された。特に千歳所属機は、[[1990年]]︵平成2年︶にサハリンで大火傷を負った少年[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ]]の北海道への救急搬送に用いられたほか、2度にわたるロシアへの緊急支援物資輸送に用いられた。﹁ブルーイレブン﹂はヨット捜索救助と中国密航船発見の功から、2度の長官表彰を受けた<ref name="mayama"/>。 老朽化により[[2009年]]︵平成21年︶2月から解役が始まり、09年12月には﹁おじろ2号﹂が解役。最後まで残った﹁ブルーイレブン﹂も、42年間の総飛行時間は2万3,000時間以上に達していた<ref>{{Cite news |author=米田堅持 |url=http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100529mog00m040013000c.html |title=YS11‥最後の観閲式 今年度中に海保を引退 |newspaper=毎日jp |publisher=毎日新聞社 |date=2010年5月29日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100601021722/http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100529mog00m040013000c.html |archivedate=2010年6月1日}}</ref>上に、航空法の改正で改造が必要なことから、2011年︵平成23年︶1月13日に解役<ref>{{Cite news|title=海上保安庁YS11さよならブルーイレブン 写真特集|date=2011-01-13|newspaper=時事ドットコム|url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=cys110&d=d4_mili|accessdate=2019-08-16}}</ref>。退役した機体は、部品取り用に航空自衛隊に提供された<ref name="さよなら"/>。後継機には、[[2006年]]︵平成18年︶[[11月]]に、[[ボンバルディア・エアロスペース|ボンバルディア]]の[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q300]]海保仕様機を3機発注した。2009年︵平成21年︶から導入が始まり2011年︵平成23年︶1月にはYS-11を全機退役させた<ref>{{Cite web|和書|title=YS11、海保最後の1機引退 航空基地で解役式|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG13046_T10C11A1CC1000/|website=日本経済新聞 電子版|accessdate=2019-03-24|publisher=|date=2011-01-13}}</ref>。 {| border="1" class="wikitable" style="background:#ffffff"
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=== 航空局 ===
[[Image:YS-11-JA8709.jpg|thumb|250px|航空局 YS-11(JA8709)]]
[[運輸省]]︵現[[国土交通省]]︶[[航空局]]では飛行検査機として採用され、管制保安部に配属となった。前方右側の貨物扉を廃止、機体上面に短波・高周波アンテナ、2本のUHFアンテナ、後方下面にTACANアンテナ、2個のマーカーアンテナ、[[補助動力装置]] (APU) の吸排気口増設などの改造が行われ<ref name=otakei_2020091304 />、キャビンは前方に各種無線機器、自動操縦装置関係機器、オーディオ機器が置かれた作業室、後方を8名が搭乗できる客室とした。最初は機首部分と垂直尾翼、主翼先端が蛍光オレンジ色に塗られていたが、後に全身モノトーンホワイトと細帯に変更された<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=pAeg50w32q8&t=1485s 南ボロジノの翼-新南大東空港建設の記録-︵改訂版︶] 沖縄県公式チャンネル</ref>。元[[日本エアシステム|東亜]]の2084︵JA8709︶は、後に[[飛行検査情報システム]]︵[[AFIS]]︶と[[空中衝突防止装置]]︵TCAS︶を搭載していたが、老朽化のために[[2006年]]︵平成18年︶[[12月22日]]に全機引退した<ref>{{Cite web|和書|title=写真展﹁青木 勝 YS-11 名機伝説﹂ 所沢航空発祥記念館|url=https://www.aviationwire.jp/archives/121776|website=Aviation Wire|accessdate=2019-03-24|publisher=}}</ref>。 航空局では後継機として[[ボンバルディア・エアロスペース|ボンバルディア]][[ボンバルディア CRJ|BD-700]]、[[サーブ 2000|サーブ2000]]、ボンバルディア[[デ・ハビランド・カナダ DHC-8|DHC-8 Q300]]を採用した。1998年に引退した2003︵JA8610︶は量産初号機︵通称﹁ひとまる﹂︶であり<ref name=otakei_2020091304 />、1999年から記念機として運輸省・文部省︵いずれも当時の名称︶、[[国立科学博物館]]、JALの協力によって東京国際空港内で年間約900万円かけて動態保存されていた。[[2007年]]には[[日本機械学会]]によって[[機械遺産]]に<ref>[http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_013.html 旅客機YS11] - 機械遺産公式サイト。2016年5月9日閲覧。</ref>、[[2008年]][[4月]]には[[日本航空協会]]によって[[重要航空遺産]]に認定されている<ref>[http://www.aero.or.jp/isan/heritage/aviation-heritage-YS-11.htm 重要航空遺産 YS-11輸送機量産初号機︵JA8610︶および関連資料] - 日本航空協会公式サイト。2016年5月9日閲覧。</ref>。しかしその後の検討により動態保存を断念し、2020年1月に解体の上茨城県筑西市の民間施設に移設された<ref>{{Cite web|和書|title=科博、国産旅客機﹁YS-11﹂量産初号機の解体作業公開。胴体と左主翼を分離。今後は茨城県筑西市で一般公開予定|url=https://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/1229271.html|website=トラベル Watch|date=2020-01-15|accessdate=2020-08-21|language=ja|last=株式会社インプレス}}</ref>。 上述の通り、[[エアロラボインターナショナル]]が2014年12月に航空局から機体を落札し、レストアを実施して再飛行を目指している。<br />
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|2041||日本||全日本空輸||[[1975年]]<br/>[[5月28日]]||[[大阪国際空港|伊丹空港]]で胴体着陸||修復して復帰
|-
|2043||[[大韓民国|韓国]]||[[大韓航空]]||[[1969年]]<br/>[[12月11日]]||[[ハイジャック]]され[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]の[[
|-
|2054||[[ブラジル]]||[[ヴァリグ・ブラジル航空]]||[[1977年]]<br/>[[5月17日]]||ブラジル・[[サンタカタリナ州]]・ジョインビル空港でオーバーラン||修復して復帰
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== 静態保存機 ==
退役したYS-11の一部は日本国内各地の博物館などに寄贈され、[[静態保存]]され展示されている。
[[みちのく北方漁船博物館]]に展示されていた機体︵登録番号‥JA8809︶は、元日本エアコミューターの機体だったが、日本エアシステムの塗装で展示されてい また、日本国外でも民間旅客会社や政府機関で運用されていた機体が展示されていることがある。
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** [[美保飛行場|航空自衛隊美保基地]](展示開始 2018年)
* 量産初号機
** [[国立科学博物館]](展示は[[ザ・ヒロサワ・シティ]](展示開始 2022年1月予定) <ref group="注釈">2020年3月までは羽田空港で保管されていたが、一般公開が限られることから、公開の在り方について検討を重ね、無償貸与という形でザ・ヒロサワ・シティにて展示されることとなった</ref><ref>{{Cite web
* 国土交通省 航空局機
** [[調布航空宇宙センター]](展示開始 2012年)(前頭部のみ)
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総生産数は決して多くはないが、日本の[[高度経済成長]]期を象徴する存在の一つとしてのノスタルジーや、武骨な構造・独特のエンジン音などを持つ個性的な機体として、日本には多くのファンがいる。
日本国内の航空専門誌では「日本の名機」「日本初の名国産機」などとも評しているが、実際にはエンジンを
[[鉄道]]雑誌では同じ[[1964年東京オリンピック]]の前後にデビューした日本の乗り物として、陸の[[新幹線0系電車]]と対をなす存在として語られることがある。両者にはかつて軍用機製造に携わっていた人々によって作られた︵YS-11については同じ航空分野のため自然な経過であるが、新幹線については[[三木忠直]]や[[松平精]]らのエピソードが著名︶、という共通点がある<ref>新幹線0系電車特集雑誌 1999年 イカロス出版</ref>。 889 ⟶ 925行目:
* [[大韓航空機YS-11ハイジャック事件]]
* [[プロジェクトX〜挑戦者たち〜]] - YS-11開発が前後編の2回に分けて放送され、その次の回は前述の海保YS-11による[[コンスタンティン・スコロプイシュヌイ|サハリンからの全身火傷患者]]の搬送の話であった
*[[黒い霧事件 (政界)]]
**[[上林山栄吉]]
== 外部リンク ==
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[[Category:経済産業省]]
[[Category:運輸省]]
[[Category:航空自衛隊の
[[Category:海上自衛隊の
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