インヴァロッヒーの戦い (1645年)


Battle of Inverlochy164522西
インヴァロッヒーの戦い
戦争スコットランド内戦英語版
年月日1645年2月2日
場所スコットランドフォート・ウィリアム近郊インヴァロッヒー
結果王党派の勝利
交戦勢力
アイルランド人王党派英語版
スコットランド人ハイランダー
スコットランド人カヴェナンター
指導者・指揮官
モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハム
アラスデア・マッコーラ英語版
ダンカン・キャンベル・オブ・オーチンブレック英語版
戦力
1,500人 2,000人 - 3,500人
損害
僅少 1,500人
清教徒革命
主教戦争
ニューバーン
イングランド内戦
エッジヒルアドウォルトン・ムーアマーストン・ムーアネイズビー
スコットランド内戦
インヴァロッヒーキルシスフィリップホフ
アイルランド同盟戦争
ジュリアンストーンキルラッシュリズキャロルニュー・ロスベンバーブダンガンの丘ノクナノース
三王国戦争
プレストンダンバーウスターラスマインズドロヘダクロンメルマクルームスキャリフホリスリムリックノックナクラシーゴールウェイ

モントローズ侯の行軍

編集

11116431[1]

1644134退11003[2]

89121[3]

姿西16451姿[4]

インヴァロッヒーの戦い

編集

モントローズ侯の軍は丘の上に陣取り、アーガイル侯の軍は山麓のインヴァロッヒーにいた。戦闘直前にアーガイル侯は肩を脱臼していたため、湖に浮かべた大型ボートへ退いて指揮をダンカン・キャンベル・オブ・オーチンブレック英語版に委ね、オーチンブレックは中央にカノン砲を備えたキャンベル氏族の兵を、左右にローランド地方の兵を配置した。一方モントローズ侯はハイランド地方の兵を中央、アイルランド兵を右翼、左翼に振り分けた。

2月2日の夜明け前に戦闘開始、アイルランド兵が敵両翼のローランド兵に襲い掛かり、混乱に陥れた。オーチンブレックはキャンベル兵に中央への反撃を命じたが、モントローズ侯のハイランド兵が先んじて攻撃、全面衝突になった頃合いでモントローズ侯の騎兵隊が側面から背後へ回り、敵の退路を遮った。包囲の危機に晒された盟約派の軍は総崩れになり、オーチンブレックは重傷を負い捕らえられた。湖上のアーガイル侯は退却、盟約派は1500人を失う敗北を喫した[5]

戦後

編集

勝者となったモントローズ侯はチャールズ1世へ手紙を書き、王党派の完全勝利まではいかなる和平も拒み、援軍を率いて王の助けに駆け付けることを記した。それから王党派支持を増やす軍事活動を再開、500人の歩兵と160人の騎兵を率いたハントリー侯の息子ジョージ・ゴードン卿を加え東へ転戦した。アーガイル侯はエディンバラへ退却、スコットランド身分委員会英語版はモントローズ侯をお尋ね者にして触れ回ったが実効性はなく、手をこまねいているだけだった。この後もモントローズ侯は山に潜伏しつつ都市を荒らし回るゲリラ戦法を活用し、ベイリーの追跡をかわし盟約派を翻弄することになる[6]

脚注

編集


(一)^ P273 - P277P256 - P258P278P284 - P285

(二)^ P277P295P321 - P324P359 - P361

(三)^ P277 - P278P374 - P378P386 - P389

(四)^ P405 - P408P426 - P429

(五)^ P361P429 - P431

(六)^ P278 - P279P431 - P432P455 - P456P478 - P480

参考文献

編集

1997

2000

2015