Ulus buqa: ? - 13244اولوس بوقاŪlūs būqā

概要

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51268131276

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大元ウルスへの投降

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311294221296[2]3[3]

4使4[4]

2[5]

31297[6]3[7][8][9]

晩年

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212984130061302[10][11][12]1302

寿[13]

子孫

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『元史』では并王晃火帖木児という弟がいたことを記す。しかしコンコ・テムル(晃火帖木児)がウルス・ブカの弟だった場合コンコ・テムルの活動時期が遅すぎ不自然であるため、コンコ・テムルは実際にはウルス・ブカの息子で、ペルシア語史料でウルス・ブカ(اولوس بوقاŪlūs būqā)の息子のクナン・テムル(قونان تیمورQūnān tīmūr)と記される人物と同一人物であると推測されている[14]

モンケ家の系図

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Baltu,禿بالتوBāltū
Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr

Ürüng-daš,اورنگتاشŪrung tāsh2
Sarban,ساربانSārbān

Sirigi,شیرکیShīrkī3
Ulus-buqa,اولوس بوقاŪlūs būqā4
Qongqo-temür,قونان تیمورQūnān tīmūr
Čerik-temür,7

Tegüs-buqa,2

Töre-temür,توراتیمورTūlā tīmūr

Tümen-temür,禿تومان تیمورTūmān tīmūr

Asudai,آسوتایĀsūtāī
Ölǰei,اولجایŪljāī5
Čečektu,禿چکتوChektū6

Hulaču,هولاچوHūlāchū

Hantom,هنتومHantūm

Ölǰei buqa,اولجای بوقاŪljāī būqā

[15]

脚注

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  1. ^ 村岡1985,330-331頁
  2. ^ 『元史』巻19には「[元貞二年九月]甲午、令広海・左右両江戍軍、以二年三年更戍。海都・兀魯思不花部。給出伯所部軍米万石」という記述があり、「海都・兀魯思不花」とは「カイドゥ、ウルス・ブカ」の事を指すと見られるが、前後の文脈から孤立しており本文が何を意味するかは不明である。しかし、時期から見てウルス・ブカのカイドゥ・ウルスからの投降に関わる記述の一部が欠落したものと推測されている(松田1983,30頁)
  3. ^ 松田1983,40頁
  4. ^ 松田1983,41-45頁
  5. ^ 『元史』巻121,「大徳元年、叛王薬木忽児・兀魯思不花来帰。博羅歓聞之、遣使馳奏曰『諸王之叛、皆由其父、此輩幼弱、無所与知。今茲来帰、宜棄其前悪、以勧未至』。帝深以為然」
  6. ^ 『元史』巻19,「大徳元年春正月庚午、増諸王薬木忽児・兀魯思不花歳賜各鈔千錠」
  7. ^ 『元史』巻19,「[大徳元年三月]庚寅……賜諸王薬木忽児及兀魯思不花金各百両、兀魯思不花母阿不察等金五百両、銀鈔有差……薬木忽児及兀魯思不花所部民飢。以乳牛牡馬済之」
  8. ^ 松田1983,50頁
  9. ^ 『元典章』巻1「大徳改元詔書」,「大徳三年二月日……此者。薬木忽児・兀魯思不花・朶児朶懐等去逆效順。率衆内附。畢会宗親。釈其罪戻。適星芒之垂象。豈天意之警予。宜推一視之仁。誕布更新之政。可改元貞三年、為大徳元年」『元史』巻19,「[大徳元年夏四月]壬寅、賜兀魯思不花円符」
  10. ^ 『元史』巻19,「[大徳二年五月]壬戌……賜諸王薬木忽児金一千二百五十両、兀魯思不花並其母一千両、銀・鈔有差」
  11. ^ 『元史』巻20,「[大徳四年十二月]癸巳……賜諸王忻都部鈔五万錠、兀魯思不花等四部二十一万九千餘錠、西都守城軍二万八千餘錠」
  12. ^ 『元史』巻20,「[大徳六年九月]甲午、賜諸王兀魯思不花所部鈔六万錠」
  13. ^ 村岡2013,108頁
  14. ^ 村岡2013,107-108頁
  15. ^ 村岡2013,117頁

参考文献

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  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 松田孝一「ユブクル等の元朝投降」『立命館史学』第4号、1983年
  • 村岡倫「シリギの乱:元初モンゴリアの争乱」『東洋史苑』第24/25合併号、1985年
  • 村岡倫「モンケ・カアンの後裔たちとカラコルム」『モンゴル国現存モンゴル帝国・元朝碑文の研究』大阪国際大学、2013年
  • 新元史』巻112列伝9
  • 蒙兀児史記』巻37列伝19