カルロ・ムニエル
カルロ・ムニエル︵Carlo Munier、1859年7月15日 - 1911年2月10日︶は、イタリアのマンドリン奏者、作曲家。それまでワルツ・セレナーデ・行進曲のような軽音楽の分野に限られていたマンドリンを、クラシック音楽の楽器として認知させるよう尽力し、マンドリン復興の祖と評価されている。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/eb/Munier_portrait.jpg/220px-Munier_portrait.jpg)
生涯
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ナポリ出身。幼くして父母を喪い、母方の祖父のパスクワーレ・ヴィナッチャに養育された。ヴィナッチャ家は18世紀前半から続く楽器製作メーカーとして知られており、パスクワーレはマンドリンに技術的な改変を加え、モダンマンドリンの祖の一人とみなされている。ムニエルはヴィナッチャ家の人々からマンドリンの演奏を教わり、作品の﹃マンドリンとギターのための3つのマズルカ﹄はおじのジェンナーロに捧げられている。
最初に音楽の手ほどきを受けたヴィナッチャ家の工房で成長したムニエルは、1869年にリコルディから﹃マンドリン教則本﹄を出版したナポリの音楽家カルミネ・デ・ラウレンティスからマンドリンとギターのレッスンを受けた。15歳の時にナポリ音楽院に入学し、ピアノ・和声・作曲を学び、19歳で卒業した。卒業後はナポリで演奏会を開くようになり、また最初の作品が出版された。それは﹃椿姫﹄と﹃清教徒﹄を2つのマンドリン、マンドラ、ピアノの四重奏に編曲したもので、後者はイタリア王妃に献呈された。
22歳の時にフィレンツェに移り、そこで後半生を過ごすこととなった。フィレンツェではすぐにヴィルトゥオーソとしての名声を確立し、またマンドリン・ギター教室を開いた。著名な生徒には王妃のマルゲリータがいる。1890年に第1・第2マンドリン、マンドラ、マンドリュートからなるマンドリン四重奏団を結成し、イタリア全土で演奏活動を行った。その結果この形態のアンサンブルが一般的になることとなった。1892年には著名なヴァイオリニストのカミッロ・シヴォリが主催するジェノヴァ国際コンクールで四重奏団は一等賞を獲得し、さらに﹃協奏曲ト長調﹄で作曲・演奏の両方で金賞を獲得した。1909年10月、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の前で﹃序曲ニ長調﹄などの自作の演奏を行い、賞賛の言葉を受けた。
1910年にマルセイユとアントウェルペンまで演奏旅行を行ったが、フィレンツェに戻った直後に病にかかり死去した。
最初の妻のルイーザは若くして亡くなり、ムニエルは﹃悲歌﹄を捧げている。2番目の妻のアルミダとの間にはルイーザとエレナの2人の娘を儲けた。
作品
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ムニエルは多作の作曲家で、作品表には350を超える出版作品がある。少数の例外を除いて作品はマンドリンとギターのために書かれている。またマンドリンのための教則本も出版している。
文献
編集- Philip James Bone, Guitar & mandolin biographies of celebrated players & composers. London, New York, Schott, 1954.
- Paul Sparks, The classical mandolin. Oxford : Clarendon Press ; New York : Oxford University Press, 1995.