ノート:仙台真田家
最新のコメント:7 時間前 | トピック:情報源の整理 | 投稿者:深谷藤原三能
仙台真田氏
編集
記述されている﹁真田氏の始祖 守信が幸村の次男﹂と言うのは 出典は 何なのでしょうか。
仙台人名大辞書の真田の項は 間違いが記されています。この事は当辞書の後継会である仙臺郷土研究会の会長から﹁真田の項は 誤謬﹂との回答を得ています。よって、それを参考にして作られた本には間違いが載っています。
私は 出典として 相応しいのは 宮城県姓氏家系大辞典のような家系の専門家が著した本等だと思います。
尚、蔵王町の後援社であったNHK仙台局 及び 河北新報も、仙台真田家は 幸村の子孫でないとして ページを削除しました。
結論として、仙台真田氏は﹁幸村の叔父さんの子孫﹂と するのが正しいものと思いますが
皆さんはどう思いますか。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年4月27日 (土) 09:03 (UTC)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Pictogram_voting_info.svg/15px-Pictogram_voting_info.svg.png)
年代 | 資料名 | 著者 | 記述内容 |
---|---|---|---|
1678年(延宝6年) | 真田家代々書上 | 真田辰信 | 曾祖父 真田隠岐守(信尹) |
1792年(寛政4年)ごろ | 伊達世臣家譜 | 田辺希文・希元・希績 | 政信の子 沖允守信 |
1843年(天保14年) | 真田家御事蹟稿 | 河原綱徳 | 大八 於京都早世 |
1994年(平成6年) | 宮城県姓氏家系大辞典 | 宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会(竹内理三ほか) | 政信の子 守信は 父の死後、白石の片倉家に身を寄せた |
2009年(平成21年) | 真田氏三代―真田は日本一の兵― | 笹本正治 | 次男大八(守信) |
2015年(平成27年) | [決定版]真田幸村と真田一族のすべて | 小林計一郎 | 少年期、京に在住していたが、「印字打ち(=石合戦)」で落命したと史料には記されている。しかし、これは偽装で、実際の大八は次姉・お梅の許に身を寄せ、片倉久米之介守信と称して三六○石を与えられ、寛永一〇年(一六三三)に没したという。 |
2015年(平成27年) | 真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 | 平山優 | 大八(信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿)らも保護されたという |
2015年(平成27年) | 真田四代と信繁 | 丸島和洋 | 次男大八も同様に、片倉家を頼ったとされる。しかし大八について、真田氏側の記録は五月五日に京で印字打(石合戦)をしていたところ、当たり所が悪く夭折したとする。これが事実であれば、九度山蟄居時のことであろう。一方、仙台藩側の記録では、大八は片倉家に庇護され、片倉守信を名乗ったとしている。五月五日死亡説は、片倉家が出自を隠すために流布した偽情報であるという。 |
これらの資料について、以下の点を指摘したいと思います。
●2000年以降の資料4件では、いずれにおいても大八=守信説を紹介している。
●大八=守信説︵新説︶に対する批判を行った上で守信=政信子説︵旧説︶を採用した専門家が今のところ確認できない。
●2015年の資料3件では、文末を﹁という﹂とすることで大八=守信説による断言を避けている。
●﹃真田四代と信繁﹄は両論併記という形を取り断言を避ける。
以上にもとづく私の見解は以下の通りです。
●大八=守信説︵新説︶が複数の歴史学者によって紹介された後、専門家による否定がなされていない現在の状況では、この説の記述を直ちに削除することはできない。
●﹃真田四代と信繁﹄が両論併記としている以上、守信=政信子説︵旧説︶は新説によって覆されたとは言いがたく、この説もWikipedia記事中に記載すべきである。
--こやまひろ︵会話︶ 2024年5月16日 (木) 17:19 (UTC)
深谷藤原です。
なるほど 貴方のコメントで ウイキペディアと言うものが だいぶ良くわかりました。
理路整然とした記述、たいしたものだと感心しています。
また、貴方の見解も大変参考になりました。
有難うございました。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年5月17日 (金) 09:36 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
貴方のコメントに感心して忘れていましたが 大八死亡の記録は 江戸時代初期の古文書にあるのです。
私は 大八死亡は 100%と確信していましたが 今回 貴方のコメントでは 50%の半々との感触のようです。
また、2000年以降の資料を重要視されているが、大八・守信が生きた時代に記された文書こそが
事実だと思います。
近いうちに丸島さん等のコメントが出れば 貴方の考えも変わるものと思います。
まずは、
大八は﹁大阪落城後 殺されたのではない﹂と記されている、
日本の武将64 小林計一郎著 1966年 人物往来社 p.91
https://www.myouji.org/sanada-kobayashi-jinbutsu.htm
1598年~1680年の史実を記した玉露叢に﹁大八 於 京都 早世﹂と
記されているとしている﹃左衛門佐君伝記稿﹄なのです。
とりあえず以上です。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年5月18日 (土) 00:04 (UTC)
お世話になります 深谷です。
まずは 笹本さんの回答です。
笹本です。
﹁真田守信として 仙台真田氏へと繋がっていったような記述がありました﹂とのことですが、私が真田氏の関係で書いたのは﹃真田氏三代﹄だと思いますが、どこに記述したのか見る限りではわかりません。
私は個人の系譜的なことには興味がなく、書いたとすれば他の一般的な記述を参照したものと思います。
守信と大八の関係については研究しておりませんのでわかりません﹂と。
追って あとの二人から回答くれば ここに記します。
終わり--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年5月19日 (日) 02:56 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
5/27日。歴史学者 平山先生から連絡が入りました((株)ポニーキャニオンの経営企画部の責任者を通して)。
﹁大八︵信繁次男、後の片倉守信と称す、寛文十年歿︶らも保護されたという﹂について。
平山さん曰く
﹁判断に質する文献が現状なく、お答えすることが叶いません﹂と。←回答をそのままコピー。
要するに深谷藤原が思うに、判断に資する文献がないのに2015年の本には ﹁大八=信繁の次男﹂と、記したと言う事です。
しかし、今回は 伊達世臣家譜など 大八・守信が生きた時代に記された文書と、家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典(1994年 角川書店発行)等の文書を付けて 判断を仰いだにも関わらず以上の短い回答でした。
これは まさに驚きの回答でした。
尚、丸島先生の思い﹁はっきり言えることは 幸村の二男 大八は、徳川の世になり、戦が起こるかどうかわからぬ頃、即ち、豊臣秀頼から声がかかる数年前に亡くなっていると言う事です﹂と言う文章は 今は 削除されているホームページに記されていた事と判明しました。
とりあえず、大八と守信の関係のコメントは以上です。
ところで、こやまひろ様、質問です。
現在の仙台真田家の編集に関して、脚注のリンク先が消えており 見っともない状況になっています。そこで、
編集するに当たって 出典を脚注より上にすることは 違反でしょうか。
出典こそ 重要と思っているので質問します、以上、お忙しいところスミマセン。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年5月28日 (火) 00:38 (UTC)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e0/Symbol_comment_vote.svg/15px-Symbol_comment_vote.svg.png)
—深谷藤原三能
信頼できる情報源がない、独自研究でしかないとあなた自身で認めました。ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではなく、演説場所や宣伝場所でもないというのは以前にも述べています。これ以上は議論の余地がないかと思いますが、最後になにかコメントはありますか?--桂輝平︵会話︶ 2024年6月25日 (火) 17:31 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
嘘をついたつもりはありません、会話して 返信があったのは3~4人位いだったので、
自分のメモも確認し、10人位の記憶しかなかったので そう答えたのです。
自分の投稿履歴と言う調べ方は 今、知りましたが 表示される履歴表示しか、知りませんでしたので。
ブロックに関しては 私は 申し上げることがありますが、それを記すと、ルール違反になるので
コメントしません。
﹁信頼できる情報源がない、独自研究でしかないと﹂の件、
そんな事は 言っていません、
信頼できるのは 家系の専門家が記した宮城県姓氏家系大辞典だと言っているのです。
独自研究も発表していません。家系大辞典等に 載っている事だと 申しているだけです。
自分の意見を記しているのは 私のサイト内だけです。
但し、ウイキのページには ﹁家系大辞典等に記されている事とは 違う﹂と 発言しているかもしれませんが。
とりあえず以上です、お手柔らかに頼みます。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年6月26日 (水) 05:04 (UTC)
コメント確かに頂戴しました。ここまでに頂いたコメントは今後﹁情報源の整理﹂節の議論の行方を見届けた後、投稿ブロック依頼を出しますが、その際の参考にさせていただきます。
﹁ブロックに関しては 私は 申し上げることがあります﹂とのことですので、そちらで発言なさってください。--桂輝平︵会話︶ 2024年6月30日 (日) 06:43 (UTC)
仙台真田家の始祖 守信の件
編集
従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が﹁守信は幸村の子でない﹂として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました。
確か、1年半前は 追加記述の理由を書く欄があったと思いますが 今回は、見つからなかったので、このノートに記しておきます。
理由﹁従来のページは出典が記されておらず、脚注の部分の半分以上が﹁守信は幸村の子でない﹂として、リンク先が削除されており、見栄えが悪いので出典を別に設置しました﹂以上です。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年6月14日 (金) 05:03 (UTC)
いくつかの出典についてオリジナルのリンク先が削除されていることは確認できましたが、それが﹁守信は幸村の子でない﹂として削除されている根拠が確認できませんでした。自分には深谷藤原三能さんが勝手にそう判断したようにしか見えませんでした。各リンク先について﹁守信は幸村の子でない﹂として削除されたことが検証できるエビデンスを示してください。--桂輝平︵会話︶ 2024年6月21日 (金) 18:23 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
myouji.org のサイトは20年ほど前にヤフーのカテゴリーに登録された 私のサイトであり、
500万人以上に見られているサイトです。
著者の意思が反映されることは 当然の事です。書くに当たって、是々非々の思いでやっており、キツイ言葉も あるでしょう。しかし、ウイキペディアからリンクするときは公平なページしかリンクしていません。
例えば これです。
そのページに記されている出典は もう周知の事実です。
尚、﹁守信は幸村の子孫ではないとして リンクが削除されている件﹂については
私が NTT仙台局などに 説明した結果です。
真田丸の年から 気づいたところに やりましたので、この9年間の間にパソコンが2台変わっておりますので 解決済みとして 完全削除もあり、その証拠を示せるかは わかりません。
私が必要と思ったところは 残してある可能性はありますが。
また、仙台人名大辞書のデタラメ部分に関しては 実際にその本を読んだ人なら気づくことです。
尚、そのページには 仙台人名大辞書の後継会の渡邊会長のコメントも記されております。
記されておりますが 読めば 常識的に敵の大将の家族を保護など 有り得ないでしょう。
尚、貴方にも 先のページの5項目に関してのコメントを求めましたが どうなのですか。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年6月22日 (土) 00:43 (UTC)
こちらではリンク先が削除された理由についてのみ議論していきましょう。
深谷藤原三能さんはなにか勘違いしているようなのでもう少しわかりやすく書きます。あなたが何を働きかけたのかは聞いていません。リンク先の管理者が削除した理由を示すエビデンスを求めています。単なる掲載期間切れなどではなく﹃﹁守信は幸村の子でない﹂として﹄と明言している以上、リンク先の管理者がそれを示したものをあなたは見ているのだと思います。そのエビデンスを示してください(2回目)。示せないのであれば前述の通り、深谷藤原三能さんが勝手にそう判断したのでしかなく、ミスリードを行っているということになります。それは議論にあたり誠実な態度とは言えません。誠実な回答をお待ちしています。--桂輝平︵会話︶ 2024年6月24日 (月) 11:01 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
返事遅れて 申し訳ありませんでした。
リンク先の管理者が削除した理由を示すエビデンスは 示せませんよ。
私が真田の子孫は 幸村の子孫でないと指摘し、ページの削除願いをすれば それでおしまいですから。
該当会社が 削除した理由を何かの誌面で発表するのは 一般的にないでしょ。
また、指摘のメールに回答してくることも めったにありません。
削除して おしまいの案件だからです。
私は 指摘するだけで 返答を求めませんでしたから。
只、私が 各社に指摘した証拠は いくつかあると思いますが パソコンが変わってしまっているので、5年、7年前の記録は あるかどうかわかりませんが、直前のパソコンの記録が残っていたので それを記します。
﹁深谷 様
7年前に﹁真田幸村の虚像と実像 そしてその子女たち﹂のセミナーを
歌舞伎座3階・花篭にて主催いたしました歌舞伎座サービスの取締役の上野と申します。
この度、貴重なご意見・ご指摘を頂戴しまして誠にありがとうございました。
弊社が良く理解せずこのセミナーを開催した事、
❝真田 徹氏❞を全面的に信用した弊社に問題がございました事に
深く反省する次第でございます。
歌舞伎座ホームページ方は、先程削除させていただきました。﹂と。
とりあえず この件は以上です。
有難うございました。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年6月29日 (土) 01:04 (UTC)
こちらに関しても検証可能性を満たせない独自研究である旨承知しました。
なお歌舞伎座ホームページの件はこの記事も真田守信の記事でも出典として使われていないので、全く別の話かと思います。
自分は﹁各リンク先について﹁守信は幸村の子でない﹂として削除されたことが検証できるエビデンスを示してください。﹂と言ったのですが示せないということで、非常に残念です。--桂輝平︵会話︶ 2024年6月30日 (日) 06:37 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
削除依頼をしたから削除されたと 思うのが一般的ではないですか。
このページをご覧ください。
終わり--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年7月2日 (火) 05:00 (UTC)
Wikipediaでは、﹁真実かどうか﹂ではなく﹁検証可能かどうか﹂を根幹のルールとしています。上の桂さんの﹁検証できるエビデンス﹂というのも、深谷さんの主張が仮に正しかったとしても、また一般的には真実が推定できたとしても、その“真実”が他の利用者によって検証できないのであれば、それはWikipedia上では、無いものとして扱いましょう。という意図が含まれます。
直感と反するため、ルールを知ったばかりの利用者は困惑しがちではあります。しかし、それを基盤にWikipediaという大規模な共同作業が全世界で成立しています。以降はこのルールに従って協議して下さい。--背番号9︵会話︶ 2024年7月2日 (火) 13:45 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
去年の3月は そうは思ってなかったので 間違っていると思われるところは 削除しました。
しかし、今年は、その辺も理解したので 前の説を削除せず両説並記としたのです。
尚、﹁その“真実”が他の利用者によって検証できないのであれば、それはWikipedia上では、無いものとして扱いましょう。という意図が含まれます﹂と言う部分は、
* なるほど なるほど そう言う事なのですか、と言う思いです。
了解しました。
コメント有難うございました。
尚、今回の貴殿のコメントは 私が昨日記したページを見てのコメントなのでしょうか。
以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年7月2日 (火) 23:46 (UTC)
そうです。深谷さんのサイトはWikipedia:信頼できる情報源 とはみなしていないからです。その点は私の会話ページで、深谷さんも理解いただいている旨のコメントをもらっているかと存じます。--背番号9︵会話︶ 2024年7月3日 (水) 00:15 (UTC)
記事の編集にあたって 私のサイトを使おうとは全然考えていませんよ。
—利用者‐会話:背番号9、深谷藤原三能 2024年6月24日 (月) 07:31 (UTC)の投稿より引用
--背番号9︵会話︶ 2024年7月3日 (水) 00:33 (UTC)
お世話になります 深谷藤原です。
今回6/12日に編集した記事の内容は 全然私のサイトは利用していませんよ。
これこれこうと 私のサイトに こう記してあるからと、皆さんに説得も 試みてもいませんよ。
NHK仙台局や河出書房などの報道機関が認めている宮城県姓氏家系大辞典など 誰でも 調べられる情報を載せ、特に大辞典を参考にして 記しました。
この事は 雨が上から降ってくる事と変わらず、自然と そうなる。
しかし、その大辞典を信用しない人が ごく一部いることも 今回 知りました。
ご理解頂けるものと思います。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年7月3日 (水) 05:16 (UTC)
情報源の整理
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守信を信繁の次男・大八とする説を紹介する文献
(一)小林計一郎 編﹃﹇決定版﹈真田幸村と真田一族のすべて﹄株式会社KADOKAWA、2015年7月21日、274-275頁。ISBN 978-4-04-601142-8。
●大八夭逝の情報を否定しながら記載
(二)小林計一郎 編﹃真田幸村のすべて﹄新人物往来社、1989年、97, 189頁。ISBN 440401614X。
●真田守信に掲載
(三)平山優﹃真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実﹄株式会社KADOKAWA、2015年10月25日、369-370頁。ISBN 978-4-04-703563-8。
●︵間接的︶小西幸雄﹃仙台真田代々記﹄宝文堂、1996年
●︵間接的︶小西幸雄﹃真田幸村と伊達家﹄国宝大崎八幡宮、仙台・江戸学叢書65、2015年
(四)笹本正治﹃真田氏三代―真田は日本一の兵―﹄ミネルヴァ書房︿ミネルヴァ日本評伝選﹀、2009年5月10日、221頁。ISBN 978-4-623-05444-2。
(五)丸島和洋﹃真田四代と信繁﹄株式会社平凡社︿平凡社新書﹀、2015年11月13日、258-259頁。ISBN 978-4-582-85793-1。
●大八夭逝の情報も併記
(六)德川宗英﹃徳川家が見た﹁真田丸の真実﹂﹄PHP研究所、2015年。ISBN 9784569827131。
●真田守信に掲載
対して深谷さんが論拠とする文献
(一)宮城県姓氏家系大辞典編纂委員会︵竹内理三ほか︶﹃宮城県姓氏家系大辞典﹄角川書店、1994年、694頁。ISBN 978-4040020402。
(二)小林計一郎著﹃日本の武将64﹄人物往来社、1966年、91頁。
●大八夭逝の情報を紹介。ただし同一著者が前掲 2015年の著作で否定した内容を確認。
(三)﹃伊達世臣家譜﹄1792年ごろ
●今泉篁洲﹁伊達世臣家譜. 第2輯 巻之九(召出之部︶﹂﹃仙臺叢書. 続刊第3巻﹄仙台叢書刊行会、1937年、38頁。︵真田守信に掲載︶
●︵復刻版︶田辺希文, 田辺希元, 田辺希績修纂 ; 平重道解題、宝文堂出版、1975年9月。
●︵追記︶仙台市博物館所蔵
(四)真田辰信﹃真田家代々書上﹄1678年
●仙台真田家に伝わっていた﹁家の書置き﹂。ただし検証できるのは、深谷さんのサイトにあるパンフレットの写し。
(五)河原綱徳﹃真田家御事蹟稿﹄1843年
●ただし検証できるのは、深谷さんのサイトにある書籍の写し。
ここまでこのノート記事などで上がっている、検証できる、検証できそうな状態の情報源は以上で良いですか?深谷さんが論拠とする 4, 5 の資料を保管する博物館、図書館などがあれば教えて下さい。国会図書館でもどこでもいいです。サイト情報やパンフレットだけでは、不十分です。深谷さんが個人的にヒアリングした情報や、読み解いた情報は、混乱するので、もう触れないで下さい。--背番号9︵会話︶ 2024年6月26日 (水) 11:13 (UTC)--︵追記︶--背番号9︵会話︶ 2024年7月1日 (月) 11:04 (UTC)
深谷さんの提示する1の﹃宮城県姓氏家系大辞典﹄は、真田氏の項本文末に︵世臣家譜︶とあり、3の﹃伊達世臣家譜﹄よりの引用項目であるため、独立した根拠とは認めがたいと考えられることを申し添えます--みやここんぶ︵会話︶ 2024年6月26日 (水) 11:36 (UTC)
お世話になります 深谷です。
守信を信繁の次男・大八とする説を紹介する文献について、
1、については 大八=守信
2、にいては
その97ページを書いた人は 小林計一郎さんではなく、田中誠三郎さんです。
そして そのページの後ろの方に﹃真意の分からないものもあり﹄とあるように、この田中さんは よくわかっていないのです。
それに いいですか、8代目の幸歓(幕末~明治の人)より 真田に復したのであれば 江戸時代 約270年間の内の15年だけが真田であり、255年間は 片倉氏、と言う事になります。
3、4、5、に関しては 2015年当時は 大八=守信と記されているが、その後、思いを変えたことは ノートの前の方で 記した事です。
6、の徳川さんの本は 読んでないので なんとも 申し上げられません。
尚、小西幸雄の本については、﹁真田家と六文銭を守る会﹂の代表者から、小西さんと平成15年から28年末までに やりとりした文書(30ページ位)が 私の所に届いており、その中に、
仙台真田代々記には 大いなる﹁史実の歪曲、偽装﹂認められるわけで、今一度、精査、確認の上
正式な訂正、謝罪を求めます。﹂ と 記されております。
以上、だからと言って 私は1~6の説を否定・修正することなく、6/12日には 並記する形で編集しました。
深谷藤原が論拠とする文献については
4、の﹁家の書置き﹂は、蔵王町が国民の税金で作ったパンフレットですので まだ 残っていると思いますので、蔵王町教育委員会生涯学習課の佐藤課長に聞いてください。
私の所には1部だけ届きました(仙台市民から)。
尚、画像及び仙台人名大辞書の間違いの理由が記されているページは これです。
一番下をご覧ください。
5、の河原綱徳﹃真田家御事蹟稿﹄は 国会図書館にあります。
とりあえず以上です、宜しくお願いします。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年6月29日 (土) 06:22 (UTC)
大八説1と2のコメントは、少なくともその書籍に記述があることは確認できましたので、 Wikipedia:検証可能性 を満たして利用して良さそうです。情報提供ありがとうございます。
大八説 3,4,5 や小西さんなどの著者たちが考え方を変えたといったコメントは、深谷さんが丸島先生などに個別にヒアリングしたり、状況からそう分析した内容ばかりかと思います。
ある著名な物理学者の﹁X理論﹂についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、あなたがその学者に連絡をとったところ﹁実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。﹂と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。
その情報をウィキペディアに載せてよいものにするには、まず、広く信頼されている報道機関を説得してあなたの話を発表してもらわなければなりません。
という事です。X理論を現在の論点に置き換え、"あなた"を深谷さんに置き換えれば、ほぼ同じです。よって、3,4,5あるいは小西さんの書籍はそのまま使うすべきかと思います。︵この点は、ご理解いただいているかと存じます︶ 次に深谷さんの論拠資料4については、 出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります。という事です。検証可能な出典の提示は深谷さんが行って下さい。無理であれば、ウィキペディアの出典として利用するのは不可能だとお考え下さい。 深谷さんの論拠資料5については、国会図書館の書籍リンクを示して頂きますか。検証できれば、使えると思いますし、そういうのはウェルカムです。そういうのが欲しいのです。 --背番号9︵会話︶ 2024年6月29日 (土) 09:27 (UTC)--アンダーバーの箇所追記--背番号9︵会話︶ 2024年6月29日 (土) 17:22 (UTC) ● 確認と方針提示この節﹁情報源の整理﹂において、使える情報源の確認を1週間以上行ってまいりました。現状、﹁守信=大八説﹂の1~6は全て使えそうです。また、深谷さんの﹁守信=政信の子﹂の論拠資料として挙げたうち、4と5は検証可能性が確定していなので、待ちの状態。一方、3の﹃伊達世臣家請﹄は採用が妥当かと思います。また1の﹃宮城県姓氏家系大辞典﹄は、みやここんぶさんの2024年6月26日︵水︶11:36︵UTC︶の指摘の通り、3の情報を引用して紹介している内容だと見ます。そのため、史料にあたる3の存在や内容を裏付ける情報源と考えます。この認識の上で、今後、本記事の編集を、確認を取りながら進めたいと思います。﹁守信=政信の子﹂の資料4.5.については検証可能性が確保されれば、採用するつもりです。反論、ご意見などございましたら、お伝え下さい。--背番号9︵会話︶ 2024年7月3日 (水) 16:20 (UTC) お世話になります 深谷藤原です。 いろいろ 有難うございます。 さて、第4項については、蔵王町が作ったパンフレットで 町の蔵王町観光協会に残っているかどうか、ですので、4項は 省いても 差し支えありません。 しかし、5項は 国会図書館で 確認できることであり、実際 私の画像は 国会図書館に行って コピーしてもらったものであり、﹃真田家御事蹟稿﹄の53ページ上段と案内している事であるので ウイキのルールにのっとっております。 尚、丸島さんの﹃真田四代と信繁﹄には 大八について2説ありとしています。218ページ。 即ち、﹁真田氏側の記録は、5月5日に京で印字打をしていたところ、当たり所が悪く 夭折したとする﹂ 一方、﹁仙台藩側の記録では 大八は片倉家に庇護され 片倉守信を名乗ったとしている﹂ よって、両説ありです。 また、第1項の小林計一郎 昭和41年(1966)著では、91ページに 大八については、蓮華定院の報告書に﹁五月五日、京都に於いて印字打 成され 御死去候﹂とあり。そして2行後に﹁大阪落城後 殺されたのではない﹂と記されています。 よって、大八、死亡説です。 尚、私としては このノートには 少なくとも、私の編集を戻した人 及び 現在のページに書き換えた人の2人には 参加してもらいたいと思っているので ベテランである貴殿の知恵をお借りしたい ものです。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年7月4日 (木) 01:38 (UTC)返信 丸島さんのトピックは、記述案を推敲している最中です。とりあえず、配慮するつもりだとお伝えします。 ﹃真田家御事蹟稿﹄については、国会図書館で検索しましたが、新編信濃史料叢書 第15巻から第18巻までが該当し、書籍特定に至っていません。確認をお願いします。 小林計一郎さんのトピックは、こやまひろさんが2024年5月10日 (金) 05:57 (UTC) でも指摘しています。1966年の資料︵深谷さん論拠2︶では大八死亡説を記しています。しかし1989年の資料︵大八2︶ではそれを基に上書きして大八説に変え、2015年の資料︵大八1︶に引き継がれています。ただ小林さんがどちらのスタンスであっても、書籍を基にして記事を編集すれば良いので、内容が大きく変わることはないと思います。--背番号9︵会話︶ 2024年7月5日 (金) 01:45 (UTC) お世話になります 深谷藤原です。 1-6項には 入ってないですが、 私は 6/12日に編集した時に 信尹の次男に政信と記された出典をウイキのルールにより明記しました。[1]と。 その仙台郷土研究会の機関誌﹁仙台郷土研究﹂昭和17年7月号に掲載された滋野姓真田之系略、については ページで案内したように 東京帝国大学 史料編纂掛編集をネットで 見れば 出てきます。 https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000037411-i6838917 昭和17年ものですので12巻となります。 以上、宜しくお願いします。--深谷藤原三能︵会話︶ 2024年7月5日 (金) 13:14 (UTC) (一)^ 片倉信光﹁仙台郷土研究会の機関誌 仙台郷土研究﹂・﹁真田幸村の後裔を探る(上)﹂ 1942, p.5.