ハーコン・シグルザルソン
ハーコン・シグルザルソン︵古ノルド語: Hákon Sigurðarson︶またはホーコン・シグルツソン︵ノルウェー語: Håkon Sigurdsson[注1]︶︵935年頃 - 995年︶は、975年 - 995年頃のノルウェーの最高統治者。︿権勢ある﹀[1]ともあだ名された。ハーコン侯[2]︵ハーコン大公[3]︶。息子はエイリーク・ハーコナルソン。
ハーコン・シグルザルソン Hákon Sigurðarson | |
---|---|
ラーデ侯 | |
![]() クリスチャン・クローグによるハーコン侯のイメージ像 | |
在位 | 961年 - 995年 |
出生 |
935年ごろ |
死去 |
995年 |
子女 |
エイリーク・ハーコナルソン スヴェイン・ハーコナルソン エルリング・ハーコナルソン |
家名 | ラーデ家 |
父親 | ラーデ侯シグルズ・ハーコナルソン |
ハーコン・シグルズソン[4]、ホーコン・シーグルドソン・ラーデヤール[5][注 2];ヤルル・ハーコン[6]、ヤール・ホーコン[7][注 3]ともカナ表記される。
経歴
編集
ハーコンは、ラーデ侯シグルズ・ハーコナルソンの息子であった[注4]。10世紀のノルウェーの︿剽窃詩人﹀エイヴィンドは、その詩﹃ハーレイギャタル﹄において、彼が仕えていたハーコンが、オーディンの息子セーミングの神聖な血統につながる家系だと謡っている[8]。
父が961年にハラルド灰衣王の一味に殺害されたあと、ハーコンはヤールになった。
ハーコンはしばらくの間ハラルド灰衣王と戦い、その後デンマーク王ハーラル青歯王の元に逃れざるを得なくなった。デンマークでは、ハラルド灰衣王と対立していたハーラル青歯王に協力した。
ハーコンがデンマークにいたとき、ハーラル青歯王は彼に洗礼を受け ることを強制し、キリスト教を広めるためにノルウェーに向かう聖職者達を彼に任せた。出発するのによい風がハーコンを迎えに来たとき、彼は聖職者たちに陸に戻るよう命じた。
ハラルド灰衣王は970年に殺害された[9]。この後に、ハーコンは候に封じられ、ハーラル青歯王の封臣としてノルウェーを統治した。封地においてハーコンは統治権を完全に認められており、独立した統治者であった。ハーラル青歯王のため、ハーコンはヨータランドを攻撃し、そこの支配者のヤール・オッタルを殺害した。
ハーコンは、古い北欧の神々の断固たる信奉者であった。そして、ハーラル青歯王が975年頃にハーコンをキリスト教徒にしようとしたとき、ハーコンはこれを拒みデンマークとの決別を決意した。
986年のヒョルンガヴァーグの戦いの際には、デンマーク王スヴェン双叉髭王の依頼を受けた、首領シグヴァルディが率いるヨームのヴァイキングがノルウェーに侵攻してきたため、ハーコンは息子のエイリークと共にこれを迎え撃った。当初はノルウェー側が劣勢であったが、ハーコンが息子のエルリングを守護女神たち[注5]に生贄[注6]として捧げたところ、雹の嵐が起こり、ヴァイキング達は撤収した[注7]。ハーコンは数十人のヴァイキングを捕らえて処刑した[11]。戦いはハーコン側の勝利となった[12][13]。
やがてハーコンは、若い女性を支配地域の各地から集めては夜を共に過ごして帰宅させるなど、性的に不道徳な行動をみせるようになった。そのため農民たちの怒りや反感を買っていったとされている[注8][15]。このことについてヘルマン・パウルソンは、キリスト教徒である人々が異教徒であるハーコンを悪役に仕立てるため創作したエピソードと考えている[16]。
995年、ハラルド美髪王の子孫として現れたオーラヴ・トリュッグヴァソンを担いだトロンデラーグの人々と、ハーコンとの間に争いが起こった。ハーコンはたちまちすべての支持者を失い、メルフスのリムル農場にある豚小屋の中に隠れていた間に、彼自身の奴隷であり友人であるカルクによって殺された。ハーコンの2人の息子、エイリークとスヴェイン、そして数人の仲間が、スウェーデンの王オーロフの元に逃れた[17]。
なお、﹃ハルフレズのサガ﹄によれば、詩人のハルフレズは侯のために賛歌 (ドラーパ) をつくったことがある。ハーコンはこの詩を非常に喜び、ハルフレズにすばらしい斧を贈り、彼を冬の間に自分の元に滞在させている[18]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Olav_Tryggvasons_saga_-_Haakon_jarl_2_-_C._Krohg.jpg/280px-Olav_Tryggvasons_saga_-_Haakon_jarl_2_-_C._Krohg.jpg)
補注
編集
(一)^ Haakon II Sigurdsson Jarlとも。
(二)^ 父称形。
(三)^ ヤールは﹁侯﹂。
(四)^ シグルズ侯、または﹁ヤール・シグルズ。歴史上、ラーデの館の領主︵古ノルド語では﹁フラジル Hlaðir﹂の領主︶は、旧トロントヘイム︵現今のトロンハイムではなくトロンデラーグ地区にあたる︶の統治者だった。
(五)^ 女神たちの名は、ソルゲルズ・ヘルガブルーズとイルパ︵トルゲルドとイルパ︶。
(六)^ ブロート。
(七)^ こうした超常現象の記述は、﹃ヨームのヴァイキングのサガ﹄によるが、守護女神はさらに指から矢を発射して攻撃した[10]。
(八)^ ﹁領主権﹂(droit de seigneur)、いわゆる﹁初夜権﹂の行使をした[14]。
脚注
編集
(一)^ ﹃ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -︵一︶﹄329頁で確認した表現。
(二)^ ﹃エッダとサガ﹄123、132、154頁の表記。
(三)^ ﹃オージンのいる風景﹄で確認した表記。
(四)^ ﹃ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -︵一︶﹄307頁で確認した表記。
(五)^ ﹃スカルド詩人のサガ﹄182頁で確認した表記。
(六)^ ﹃北欧神話﹄︵H.R.エリス・デイヴィッドソン著、米原まり子、一井知子訳、青土社、1992年、ISBN 978-4-7917-5191-4︶索引vii頁で確認した表記。
(七)^ ﹃北欧史﹄︵百瀬宏・熊野聰・村井誠人著、山川出版社︿新版世界各国史21﹀、1998年、ISBN 978-4-634-41510-2︶付録64頁で確認した表記
(八)^ ﹃オージンのいる風景﹄227-228頁。
(九)^ Snorri Sturluson (著); Eiríkr Magnúson (英訳) (1905年), Óláfs saga Tryggvasonar 12–14章, Heimskringla. History of the Kings of Norway所収。
(十)^ ﹃エッダとサガ﹄132頁。
(11)^ ﹃サガとエッダの世界﹄202-203頁。
(12)^ ﹃ヘイムスクリングラ 北欧王朝史(一)﹄330頁。
(13)^ ﹃エッダとサガ﹄130–134頁。
(14)^ Finlay, Alison (英訳); Whaley, Diana (解説・巻末注) (2002) [1997], “The Saga of Gunnlaug Serpent-Tongue”, Sagas of the Warrior-Poets (Penguin), ISBN 9780141941585 123頁/注16︵281頁︶。
(15)^ ﹃オージンのいる風景﹄226頁。
(16)^ ﹃オージンのいる風景﹄240頁︵注23︶。
(17)^ ﹃エッダとサガ﹄123頁。
(18)^ ﹃スカルド詩人のサガ﹄118頁。
参考文献
編集
●スノッリ・ストゥルルソン﹃ヘイムスクリングラ - 北欧王朝史 -︵一︶﹄谷口幸男訳、プレスポート・北欧文化通信社、2008年、ISBN 978-4-938409-02-9。
●谷口幸男﹃エッダとサガ 北欧古典への案内﹄︿新潮選書﹀1976年。。
●ヘルマン・パウルソン﹃オージンのいる風景 オージン教とエッダ﹄大塚光子、西田郁子、水野知昭、菅原邦城訳、東海大学出版会、1995年、ISBN 978-4-486-01318-1。
●森信嘉﹃スカルド詩人のサガ コルマクのサガ/ハルフレズのサガ﹄、東海大学出版会、2005年、ISBN 978-4-486-01696-0。
●山室静﹃サガとエッダの世界 アイスランドの歴史と文化﹄社会思想社︿そしおぶっくす﹀、1982年。
関連項目
編集- ハーコン・ヤルル - ベドルジハ・スメタナがハーコンを題材に作曲した交響詩。アダム・エーレンスレーガーの詩が元になっている。
- ラーデのヤール