ライハウス陰謀事件
カトリックへの転向
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1660年に王政復古が成立してイングランドにはひとまずの平和が取り戻されたが、即位したチャールズの施策はフランスなどカトリック勢力寄りではないかとの懸念が議会・市民の間で広がっていた。この当時イングランドではカトリックやルイ14世などが唱道する絶対王政への反感が根強く、このことが王位継承問題への関心を喚起した。メアリー1世の記憶もいまだ褪せていないイングランドにおいて、急進的勢力はカトリックの王が戴冠するのは避けられるべきであると考えていた。
チャールズやジェームズはイングランド国教会を信仰していることになってはいたが、カトリックへの敵意までは持ち合わせていなかった。さらに急進派を憂慮させたのは、ジェームズが1670年、カトリックへの改宗を公言したことであった。ジェームズはルイ14世の紹介により、メアリー・オブ・モデナと再婚した。イングランド王室は、議会や市民の反発をよそに、カトリック勢力への参加を志向しているように思われた。
排除法案
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このようなカトリックへの接近に、カトリック陰謀事件による世論の後押しも受けて下院は1679年および1680年の2度にわたって王位排除法案︵Exclusion Bill︶を提出、可決させた。この排除法案とは、カトリックは王位継承権をもたないというもので、目的はあきらかに王位継承からジェームズを除くことであった。この法案は貴族院の反対とチャールズによる議会解散によって日の目をみなかった。
排除法案の頓挫によって、急進派すなわちホイッグは、合法的な手段によるジェームズの王位継承阻止は不可能であることを思い知らされた。このころから、何がしかの陰謀が企図されているという噂がまことしやかに囁かれるようになった。
ライハウス
編集発覚と弾圧
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6月に入って、密告によって陰謀が画策されていたことが当局の知るところとなった。ただちにホイッグ有力者たちは根こそぎ逮捕され、後に血の巡回裁判︵血の審判︶で知られるジョージ・ジェフリーズ判事によって、首謀者と目されていたウィリアム・ラッセル及びアルジャーノン・シドニーらは首を刎ねられた。これらの処分は、いずれも証拠が不十分なまま執行されていった。なお、﹁シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーは陰謀事件に加担していなかったがジェームズの王位継承に批判的であったとしてこの陰謀事件を契機に国外追放となった﹂という解説が日本でなされる場合があるが、彼は1683年1月に亡くなっており、何らかの混同があったものと思われる。
こうした弾圧によってホイッグは壊滅的な打撃を受け、カトリックの君主ジェームズの即位は動かしがたいものとなった。しかし一方で、カトリックやジェームズへの反感はさらに募ることになり、また1685年に即位したジェームズら権力者側もホイッグを度しがたいテロリスト集団と見なすようになった。両者の軋轢は、やがて議会のネーデルラントへの接近と、後に名誉革命とよばれる1688年のクーデターの遠因となった。