ヴェラ・ヒティロヴァ
ヴェラ・ヒティロヴァ︵Věra Chytilová、1929年2月2日 - 2014年3月12日︶は、チェコ・オストラヴァ出身の前衛映画監督であり、チェコ映画の先駆者である。もっとも偉大なチェコの女性映画作家として知られる。1960年代に当時のチェコスロヴァキア政府に発禁処分を受けた、﹁チェコ・ヌーヴェルヴァーグ﹂でもっとも知られる映画﹃ひなぎく﹄︵Daisies、1966年︶の監督である。ファミリーネームの日本語訳はヒティロヴァーとも表記される[1]。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/72/Vera_Chytilova.jpg/220px-Vera_Chytilova.jpg)
来歴・人物
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1929年2月2日、チェコスロヴァキア︵現チェコ共和国︶の第3の都市オストラヴァに生まれる。チェコ第2の都市ブルノで哲学と建築学を学び、デザイナー、ファッション・モデルを経て、首都プラハのバランドフ撮影所︵Barrandov Studios︶に入り、脚本家、女優、助監督として働く。
1957年、プラハのフィルムアカデミー︵FAMU︶に入学、イジー・メンツェル、ミロシュ・フォルマン、ヤン・ニェメツ、イヴァン・パッセルを教えたオタカル・ヴァーヴラ︵Otakar Vávra︶のもとで演出を学び、1962年卒業。卒業制作の﹃天井﹄︵1961年︶と翌年の﹃一袋分の蚤﹄︵1962年︶は即興演出の手法をとった、まさにフランスのヌーヴェルヴァーグと同時代性をもつ作品である。
1966年12月30日、﹃ひなぎく﹄がチェコスロヴァキア国内で公開されるが、チェコスロヴァキア当局からは発禁処分を受け、ヒティロヴァは7年間にわたり活動停止となった[2]。翌年以降、世界各地で公開され、広く受け知られるところになる。日本では、1991年3月に公開され、その先進的でガーリーな感覚が、いわゆる﹁渋谷系﹂文化のなかで若い女性を中心に受け入れられ、﹁1960年代の女子映画の決定版﹂とされている[2]。
1969年、いわゆる﹁政治の時代﹂に突入していたフランス・ヌーヴェルヴァーグの映画作家ジャン=リュック・ゴダールがプラハに来訪、彼が組織した映画製作集団﹁ジガ・ヴェルトフ集団﹂による映画﹃プラウダ (真実)﹄に出演、インタビューを受ける。同作は1971年11月3日、日本でも公開された。
晩年もなお活動し、﹃保証のないすばらしい瞬間 Hezké chvilky bez záruky﹄︵2006年、英題‥Pleasant Moments︶が遺作となった。2014年3月12日、闘病生活の末プラハにて死去[2]。85歳没。
おもなフィルモグラフィ
編集- 天井 Strop 1961年 - 監督・原作・脚本
- 一袋分の蚤 Pytel blech 1962年 - 監督・脚本
- ひなぎく Sedmikrasky(Daisies) 1966年 - 監督・原案・脚本
- プラウダ (真実) Pravda 1969年 - 出演 ※監督ジガ・ヴェルトフ集団
- りんごゲーム Hra o jablko 1976年 - 監督・脚本
- パネルストーリー Panelstory aneb Jak se rodí sídliste 1979年 - 監督・脚本
- 道化師と女王 Sasek a královna 1987年 - 監督
- 解放者マサリィク T.G.M. - osvoboditel 1990年 - 監督・脚本
- 保証のないすばらしい瞬間 Hezké chvilky bez záruky 2006年
脚注
編集- ^ 『ひなぎく』作品紹介、映画『ひなぎく』公式サイト(2014年日本上映)、2014年3月13日閲覧。
- ^ a b c 福田麗 (2014年3月13日). “『ひなぎく』ヴェラ・ヒティロヴァ監督が死去 85歳 チェコの女性映画作”. 2014年3月13日閲覧。
外部リンク
編集- ヴェラ・ヒティロヴァ - IMDb
- Extensive Biography - 詳細なバイオグラフィ
- Additional Information and Timeline - ウェイバックマシン(1999年2月3日アーカイブ分) - 詳細なフィルモグラフィ