中嶋弘子
経歴
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東京都出身[3]。再婚した夫は大蔵官僚で国税庁長官や日本専売公社総裁などを務めた阪田泰二。
第二次世界大戦後、フランスで服飾について学び、帰国後ファッションデザイナーとして働き始める[3]。
1959年からNHKのテレビ番組﹃午後のおしゃべり﹄、1961年からは﹃夢であいましょう﹄の司会を務めた[3]。テレビ慣れしていないたどたどしさと、頭を前ではなく右横にかしげてお辞儀する仕草が上品であると人気となった[4]。中嶋をホステス︵司会︶役にすることを強く推薦した永六輔は当時を回想し、素人で、司会をやる気もない人のほうがかえってテレビに向いていると考えていたこと、またファッションデザイナーということでテレビ用の衣裳に困らないという思惑もあったことを語っている[5]。結婚を期に番組を降板し、以降はファッションデザイナーとして80歳まで現役で活躍した[3]。
2021年7月18日、老衰のため死去した[1]。95歳没。告別式では孫で当時財務省関税局長だった阪田渉が喪主を務めた[1]。墓所は谷中霊園。
脚注
編集出典
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(一)^ abc“﹁夢であいましょう﹂司会、服飾デザイナーの中嶋弘子さん死去…95歳 : エンタメ・文化 : ニュース”. 読売新聞オンライン. 読売新聞社 (2021年8月10日). 2021年8月23日閲覧。
(二)^ “東京地方裁判所 昭和37年︵ワ︶301号 判決”. 大判例. 2021年9月20日閲覧。 “被告は﹁中島﹂の姓を称号使用してはならない。”
(三)^ abcd“﹁夢であいましょう﹂司会 中嶋弘子さん死去95歳”. NHKニュース. NHK (2021年8月15日). 2021年8月23日閲覧。
(四)^ “夢であいましょう”. NHK放送史︵動画・記事︶. NHK. 2021年8月23日閲覧。
(五)^ ﹃テレビサライ﹄編集部 編﹃あの日、夢の箱を開けた!テレビ黄金時代の立役者12人の告白﹄小学館︿テレビサライブックス﹀、2003年9月1日、122頁。ISBN 978-4093437011。