于謙
土木の変以前
編集土木の変
編集景泰帝の擁立とエセンの撃退
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英宗が捕虜になったという報を聞くと北京は上下ともに大混乱となった。そして副都である南京への遷都論が徐有貞などから沸き起こったが、于謙はこれに反対して北京の死守を主張した。その上で、皇太后孫氏の了承を取り付けた上、監国として皇帝代行となっていた英宗の弟の郕王朱祁鈺の即位を取り決めた。これが景泰帝である。英宗は太上皇帝とされ、その子の朱見深︵後の成化帝︶が皇太子となった。于謙は王振の一族郎党を誅殺し、各地から援軍を呼び寄せ北京の防御体制を整えた。
果たして10月に英宗を虜にしているエセンが居庸関を越えて北京に迫ってきたが、于謙のもとで明軍は攻勢に出てエセンの軍勢を撃退、エセンは長城の外に引き返していった。戦いが長期化すると様々な事情から不利になったエセンは態度を軟化させ、景泰元年︵1450年︶になって明とエセンは講和を結び、無条件で英宗を送還した。英宗はそのまま宮中に軟禁されたが景泰帝はそのまま帝位に在り続け、于謙の指導で軍制改革を行い、再び土木の変が起きないように国政の引き締めを行った。
失脚・処刑と名誉回復
編集登場作品
編集- 小説
- 両京十五日(馬伯庸)