五十川基
幕末・明治初期の備後福山藩士、医師
経歴
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備後国に藩医・五十川周圭の嗣子として生まれる。五十川家は代々漢方医を業とし、周圭の代で蘭方に転じた。江木鰐水、寺地舟里の薫陶を受け、藩校・誠之館で学び、文久3年︵1863年︶10月17日に藩から洋学修業を命ぜられ、江戸の藩邸に寄留し、蕃書調所・医学所に通学修業。佐藤春海︵尚中︶の塾において、蘭学を修め、転じて慶応2年︵1866年︶に福沢諭吉の慶應義塾へ入塾︵﹃慶應義塾入社帳﹄第一巻58頁,167頁︶。同年帰郷し、誠之館の洋学世話取︵教授︶。明治2年︵1869年︶には同藩士・江木高遠が慶應義塾に入塾している。
維新後は福山藩の督事官・公議下局議長・政事堂掌吏と重用され、明治3年︵1870年︶、華頂宮博経親王の米国留学随員・盛岡藩知事の弟南部英麿の従者として渡米。コロンビア大学で在米中にドイツの軍事書﹃林戦要録﹄を翻訳出版した。肺結核により29歳で早世した。
参考文献
編集- 誠之館人物誌 「五十川基」 明治初期の英才
- 『慶應義塾入社帳 第1巻』福澤諭吉研究センター(編)、慶應義塾、1986年
外部リンク
編集- 林戦要録. 上 (英蘭堂, 1871)