井汲卓一
経歴
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滋賀県生まれ[4]。旧制東京府立第一中学校、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部から東京帝国大学文学部に転学して卒業後、富山高等学校 (旧制)に講師として赴任し、翌1925年に教授となったが[4]、1927年に京大事件に連座したとして富山高等学校を辞職した[5]。その後、同年中に日本大学講師となって、1929年まで在職した[4]。
1928年9月、産業労働調査所の所員となり[4]、1931年4月にいったん検挙されたが、保釈され[5]、その後、岩波書店における﹃日本資本主義発達史講座﹄の編集作業に参画し[4]、羽仁五郎、大塚金之助と知り合った[5]。
1933年9月、産業労働調査所の﹁大弾圧﹂の際に逮捕された[5]。
1936年には治安維持法違反により、懲役1年の刑が確定した[6]。
1938年、理研産業団富国工業株式会社に入社し、同年中に調査課長となり、1945年12月まで在職した[4]。戦時体制下であった当時、理研には、大河内信威︵小川信一︶の配慮から左翼前歴者が少なからず職を得ており、井汲はその代表的な存在であった[7]。この間には、1940年に理研の業務で中国大陸に出張した際に天然痘に罹患した[8]。
戦後は、日産協・経団連事務局や国民経済研究会嘱託などを経て、1955年に高崎市立短期大学教授となり、1958年12月に東京経済大学教授となった[4]。
1962年、﹁現代資本主義と景気循環 : 戦後の恐慌と循環に関する理論的研究﹂により、九州大学より経済学博士を取得した[9]。
「Category:経済学博士取得者」を参照
おもな著書
編集出典・脚注
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(一)^ abcデジタル版 日本人名大辞典+Plus﹃井汲卓一﹄ - コトバンク
(二)^ 福田豊﹁国家独占資本主義論争について--井汲理論を中心として﹂﹃経済論究﹄第7号、九州大学大学院経済学会、1960年、14-32頁。
(三)^ 池上惇﹁手嶋教授の国家独占資本主義論﹂︵PDF︶﹃立命館経済学﹄第19巻第4号、立命館大学経済学会、1970年、159-185頁、2014年5月22日閲覧“この権力としての国家とは別にもう一つ、経済的国家というものがあるのだということを構造改革論の方々は主張されました。当時、法政大学の今井則義教授と、現在東京経済大学の学長でございます井汲卓一教授、このお二人がだいたいその理論的支柱でございましたので、俗に今井、井汲理論と呼ぱれておりました。”
(四)^ abcdefgh﹁井汲卓一学長略年譜および執筆目録抄﹂﹃東京経大学会誌﹄第97/98号、1976年、3-11頁。
(五)^ abcd“果然、新生生産党の最高指導者判る 采配振るは井汲元日大講師同盟も完全に掌中に”. 国民新聞. (1933年10月8日) 2014年5月22日閲覧。
(六)^ “元富山高校教授に1年”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 2. (1936年12月2日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
(七)^ 三戸信人﹁証言‥日本の社会運動 産別民同がめざしたもの(1) ―三戸信人氏に聞く﹂第489号、1999年、2014年5月22日閲覧“ともあれ理研は当時、まあ“左翼の隠れ蓑”になっていたのです。井汲卓一や、終戦直後のころ日本共産党の事務部門に務めていた竹村悌三郎など、私の知人のほかに左翼前歴者はごろごろしていたのです”
(八)^ 宮本百合子. “獄中への手紙 一九四一年︵昭和十六年︶”. 2014年5月22日閲覧。 “井汲卓一氏が理研の重役で、支満へ旅行して天然痘になったということで皆びっくりしてさわいで︵手も足も出ず︶種痘したりしたという年の暮です。”
(九)^ “現代資本主義と景気循環 : 戦後の恐慌と循環に関する理論的研究 井汲卓一”. 国立国会図書館. 2014年5月22日閲覧。
(十)^ 沖山一雄. “東京都社会民主連合”. 江田五月. 2014年5月22日閲覧。
学職 | ||
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先代 北沢新次郎 |
東京経済大学学長 第4代:1967 - 1976 |
次代 渡辺輝雄 |