今川義泰
日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本今川範主三男で、高家旗本今川氏7代当主(駿河今川氏19代当主)。従五位下侍従・丹後守
今川 義泰(いまがわ よしやす)は、江戸時代中期の高家旗本。今川家では氏睦以来約70年ぶりに高家職(奥高家)に就いた。今川家19代当主[注釈 2]。
今川義泰 | |
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 享保13年(1728年) |
死没 | 天明4年1月10日(1784年1月31日)[注釈 1] |
改名 | 西尾義泰→今川義泰 |
別名 | 彦三郎、主馬(通称) |
戒名 | 仰高院殿徳峰賢威大居士[2] |
墓所 | 長延寺 |
官位 | 従五位下、侍従、丹後守 |
幕府 | 江戸幕府奥高家 |
氏族 | 清和源氏足利氏流今川氏 |
父母 |
父:今川範主、母:某氏 養父:今川範彦 |
兄弟 | 範彦、松平勝文、女(赤井林幸室)、義泰、女(稲垣正庸室) |
妻 | 喜連川茂氏の娘 |
子 | 義彰 |
生涯
編集系譜
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﹃寛政重修諸家譜﹄によれば、1男がある。
父母
●父‥今川範主
●母‥某氏
●養父‥今川範彦︵実兄︶
妻妾
●正室‥喜連川茂氏︵喜連川藩主︶の三女。
宝暦2年︵1752年︶7月に婚姻したが、のちに離婚、井上正延︵4000石︶の継室になっている。
●継室‥某氏
今川義彰の生母。某氏とのみあるため側室と思われるが、観泉寺過去帳に﹁先丹後守︵義泰︶奥方﹂とあるため、継室となったかもしれない。享和4年3月17日︵1804年4月26日︶没[注釈3]。法名は盛寿院殿禎室智祥大禅定尼[2]。
子女
●今川義彰
参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第九十四
- 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
脚注
編集注釈
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(一)^ 長延寺および観泉寺の過去帳による[1]。﹃寛政重修諸家譜﹄では天明4年閏1月18日︵1784年3月9日︶とする。これは公儀への届け出日と思われる。
(二)^ 家祖・国氏から数えた代数。
(三)^ 長延寺過去帳による。観泉寺過去帳によれば3月18日没。