伊東寿恵男
経歴
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●1939年10月、東宝文化映画部で﹃山と戦う﹄︵撮影=玉井正夫、柳恵蔵︶を監督。
●1940年2月、東宝文化映画部で﹃登高三千米﹄︵撮影=玉井正夫、柳恵蔵︶同年5月、﹃医者のいない村﹄︵撮影=白井茂︶、同年11月、﹃天気予報﹄︵撮影=白井茂︶を監督[2]。
●1941年、社団法人日本ニュース社が東宝文化映画部を他の文化映画製作各社とともに吸収。社団法人日本映画社へ改組したため、同社に移籍。同年11月、﹃働く少年少女﹄︵撮影=瀬川順一︶を監督。泰緬鉄道建設の記録映画を製作[2]。
●1945年9月7日、日本映画社から長崎県出身者として、単独で、原爆投下後の広島・長崎へ向けて派遣される。広島県庁を訪れ、近々製作スタッフの一行が広島にやってくることを伝達した[3]。加納竜一製作、相原秀次企画調査による﹁広島・長崎における原子爆弾の効果﹂︵山中真男、三木茂、鈴木喜代治、俣野公男、坂齋小一郎、藤波次郎、今野敬一撮影︶の演出を、小畑長蔵、奥山大六郎、山中真男、相原秀二とともに担当した。20日間のロケーション。
●1946年、﹁広島・長崎における原子爆弾の効果﹂︵Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki 広島長崎における原子爆弾の影響︶完成。米軍の没収を避けるため、フィルムの一部を秘匿することになり、秘匿分の選択を行う[4]。
●1947年、柳沢寿男とともに北海道美唄炭鉱に長期ロケした﹃炭坑﹄︵加納竜一製作、33分︶を監督。
●1949年、﹃空気の無くなる日﹄を監督。
●1994年、﹃映画への思い出﹄出版[1]。
出典
編集- ^ a b c 井上寿恵男さん 山本皓造
- ^ a b 旧東宝映画非劇映画作品リスト
- ^ [原爆被災記録映画の製作へ 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム]
- ^ ショートフィルム再考−映画館の外の映像メディア史から 吉原順平 Ⅲ 占領下の民主化と短編映像——文化映画から新しい教育映画へ(承前)2 戦後短編映画業界の形成——経験者たちと新しいプレーヤーの出会い