ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
伊達宗遠
言語
ウォッチリストに追加
編集
この記事は
検証可能
な
参考文献や出典
が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加
して記事の信頼性向上にご協力ください。
(
このテンプレートの使い方
)
出典検索
?
:
"伊達宗遠"
–
ニュース
·
書籍
·
スカラー
·
CiNii
·
J-STAGE
·
NDL
·
dlib.jp
·
ジャパンサーチ
·
TWL
(
2019年1月
)
伊
達
宗
遠
︵
だ
て
む
ね
と
お
︶
は
、
南
北
朝
時
代
の
武
将
。
官
位
は
従
五
位
下
・
弾
正
少
弼
。
伊
達
氏
8
代
当
主
。
凡例
伊達宗遠
時代
南北朝時代
生誕
正中
元年(
1324年
)
死没
元中
2年/
至徳
2年
5月20日
(
1385年
6月28日
)
諡号
定叟公
戒名
定叟
官位
従五位下
弾正少弼
氏族
伊達氏
父母
伊達行朝
、田村氏娘・
静照院
兄弟
宗遠
、
行資
妻
結城宗広
娘・
高明院
子
政宗
、
大條宗行
、
最上直家
正室
テンプレートを表示
目次
1
生涯
2
系譜
2.1
系譜の疑問点
3
脚注
生涯
編集
天
授
6
年
/
康
暦
2
年
︵
1
3
8
0
年
︶
頃
か
ら
長
井
氏
を
攻
め
立
て
た
。
宗
遠
は
周
辺
各
氏
と
の
一
揆
契
約
や
騙
し
討
ち
な
ど
の
謀
略
を
駆
使
し
、
長
井
氏
を
確
実
に
切
り
崩
し
て
い
っ
た
。
結
局
元
中
2
年
/
至
徳
2
年
︵
1
3
8
5
年
︶
に
は
長
井
氏
は
滅
亡
し
、
伊
達
氏
は
米
沢
を
手
に
入
れ
る
事
に
な
っ
た
。
天
授
7
年
/
康
暦
3
年
︵
1
3
8
1
年
︶
に
は
大
崎
氏
と
戦
い
信
夫
郡
・
刈
田
郡
・
伊
具
郡
・
柴
田
郡
を
奪
い
、
ま
た
、
武
石
行
胤
を
破
り
亘
理
郡
も
実
質
的
な
支
配
下
に
組
み
入
れ
て
い
る
。
こ
の
時
代
に
は
小
沢
氏
、
余
目
氏
な
ど
と
一
揆
契
約
を
結
ん
で
い
る
。
ま
た
、
米
沢
の
成
島
八
幡
宮
の
拝
殿
を
改
築
し
て
い
る
。
宗
遠
の
子
・
宗
行
は
大
條
氏
︵
大
枝
︶
[
1
]
の
祖
と
な
っ
た
。
系譜
編集
父:
伊達行朝
(
1291年
-
1348年
)
母:静照院 -
田村氏
正室:高明院 -
結城宗広
の娘、
最上氏
との異説もあり
男子:
伊達政宗
(
1358年
-
1405年
)
生母不明の子女
男子:
大條宗行
- 大枝宗行
女子:
最上直家
室
男子:
伊達遠賢
- 『永禄伊達系図』にのみ記載あり
系譜の疑問点
編集
伊
達
氏
初
期
系
図
に
は
色
々
と
差
異
が
生
じ
て
い
た
り
、
同
時
代
の
史
料
と
食
い
違
う
部
分
も
見
ら
れ
る
。
行
宗
-
宗
遠
の
場
合
、
1
3
4
8
年
の
﹃
奥
州
管
領
吉
良
貞
家
の
書
状
﹄
の
中
に
﹁
伊
達
宮
内
大
輔
行
朝
者
死
去
、
子
息
万
寿
丸
幼
稚
代
官
伊
達
修
理
亮
宗
政
﹂
と
み
え
、
ま
た
宗
遠
の
初
見
は
1
3
4
2
年
の
﹃
五
辻
顕
尚
の
書
状
﹄
の
中
の
伊
達
飛
騨
前
司
と
あ
る
為
、
宗
遠
は
行
宗
︵
行
朝
︶
の
子
息
で
無
い
可
能
性
も
指
摘
さ
れ
て
い
る
[
2
]
。
1
3
7
7
年
に
伊
達
宗
政
︵
修
理
亮
︶
が
留
守
持
家
と
一
揆
を
結
ん
だ
と
の
史
料
︵
一
揆
契
約
の
書
状
︶
も
あ
り
、
修
理
亮
宗
政
と
宗
遠
が
同
時
代
の
人
で
あ
る
こ
と
が
わ
か
る
。
脚注
編集
^
大條氏本家は明治期に伊達に復姓している。お笑いコンビ・
サンドウィッチマン
の
伊達みきお
はその末裔にあたる。
^
小林清治『東昌寺と陸奥安国寺』、『伊達政宗のすべて』(新人物往来社)