劉豹 (匈奴)
生涯
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南匈奴で反乱が起こったことで父の於夫羅が漢に留まり、196年に漢地で父が死去すると、叔父の呼廚泉︵於夫羅の弟︶が単于の位を継ぎ、劉豹は左賢王︵または右賢王︶となる[2]。後、曹操によって五部に分けられた匈奴の左部を統括する。
父が亡くなる前年の195年、董卓の残党の李傕と郭汜らによる叛乱に際して、蔡文姫を拉致したとされる[3]。207年に曹操により身代金が支払われ、蔡文姫が漢地に引き取られるまでの間に2子をもうけたとも言われるが、その名は伝わっていない。
嫡子とされる前趙の祖・劉淵は、生年が251年頃であり、劉豹が実際に於夫羅の子であるとすれば相当な長命である[4]。279年に亡くなったとされている。
脚注
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(一)^ 晋書劉元海載記による。ただしこの系譜は劉豹の子孫である後趙劉氏の自称であり、自らの血統を漢室劉氏と南単于両方を継ぐものとするイデオロギー的なものであるとも考えられている(三崎良章﹁五胡十六国﹂<2012>; 渡邉義浩﹁蔡琰の悲劇と曹操の匈奴政策﹂<2013>)。また、後述のように劉豹の死(270年代後半)と於夫羅の活動時期(2世紀後半)との隔たりも大きい。
(二)^ 三国志鄧艾伝は、嘉平元年前後の劉豹を﹁右賢王﹂として記している。史料によっては興平年間の左賢王を去卑とするもの︵後漢書献帝紀︶もある。
(三)^ ﹃後漢書﹄列女伝﹁興平中,天下喪乱,文姫為胡騎所獲,没於南匈奴左賢王﹂、蔡琰別伝﹁漢末大亂,為胡騎所獲,在左賢王部伍中﹂による。ただし上述の通りこの﹁南匈奴左賢王﹂が劉豹であるかは定かではない。後漢書の記述から蔡文姫が左賢王の妾となったと理解されることもあるが、別伝では左賢王の軍中に在ったとのみ記される。
(四)^ ﹃資治通鑑﹄第80巻晋記によると、没年は279年。
参考資料
編集- 『晋書』 載記第一 劉元海