北畠雅家
鎌倉時代前期から中期の公卿。伊勢北畠家の祖・初代。正二位権大納言。出家
北畠 雅家 | |
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時代 | 鎌倉時代前期 - 中期 |
生誕 | 建保3年(1215年) |
死没 | 文永12年3月27日(1274年4月24日) |
改名 | 雅家→如覚(法名) |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇→亀山天皇→後宇多天皇 |
氏族 | 村上源氏 久我氏流 中院家庶流北畠家 |
父母 | 父:中院通方、母:源雅頼娘 |
兄弟 |
源通氏、中院通成、雅家、土御門顕方、土御門通世、 大納言局(後嵯峨院典侍)、 花山院通雅室、ほか |
子 | 師親、師行 |
生涯
編集系譜
編集子孫
編集子孫の動向
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曾孫の北畠親房は南朝の中心の一角を担い活躍し、政治面だけでなく﹃神皇正統記﹄を著すなど文化面でも優れた人物であった。
親房の子孫は伊勢国司として、北畠政郷の代に戦国大名化し、北畠晴具の代には伊勢国の南半分、志摩国、伊賀の南部、大和の南部、紀伊国の東部にまでに及ぶ広大な所領を有した。晴具の息子・北畠具教の代には長野工藤氏を従わせて、北伊勢に進出した。
だが、具教は織田信長の侵攻︵大河内城の戦い︶に敗れ、信長の次男・織田信雄を息子・具房の養継嗣として受け入れるという屈辱的な和睦を強いられた。その後、具教は謀反を画策するが露見し、信長の命によって一族郎党もろとも討ち取られた︵三瀬の変︶。
しかし、晴具の息子・木造具政の娘が信雄に嫁ぎ、織田信良を生んだことによりその血脈は保たれることとなった︵﹁系譜﹂を参照のこと︶。その他、庶流の星合氏や藤方氏、滝川氏、田丸氏などは江戸幕府の旗本として残った。田丸氏からは江戸時代末期に田丸直允が出たが、天狗党の乱で捕縛のち処刑され宗家は断絶した。幕末まで武家として続き︵﹃寛政重修諸家譜﹄︶現在確認できる末裔は星合氏と雄利系滝川氏があり、武家以外では晴具の流れをくむ皇室などがある。
子孫から派生した諸家
編集脚注
編集出典
編集- 岡野友彦『北畠親房 大日本は神国なり』(ミネルヴァ日本評伝選77)ミネルヴァ書房、2009年 ISBN 978-4623055647