南浦文之
臨済宗の僧と作家
経歴
編集
弘治元年︵1555年︶に日向国飫肥の南郷外浦に生まれる。号の南浦はこの出生地に由来する。幼い頃から非凡ぶりを発揮し、文殊童と呼ばれていた。12歳のとき、現在の日南市南郷にあった延命寺︵現、西明寺︶と言う禅門に入り、諱は玄昌で、桂庵玄樹の孫弟子にあたる龍源寺の一翁玄心に禅と儒学を、明の江夏友賢に五経周易の宋学を学んだ。章句訓詁に秀で、15歳で京に上り東福寺龍吟庵の煕春竜喜の法嗣となり、雲興・懶雲・狂雲などとも号した。
慶長7年︵1602年︶、島津家久が創建した大竜寺の開山となり、翌8年︵1603年︶、島津氏の嘱により使として徳川家康に謁し、家康の薦めで建長寺に上堂秉払︵じょうどうひんぼつ︶の式を行い、後水尾天皇に召され宮中にて四書の新註の講を行うなど、その学識の深さで知られる。島津義久・家久らの深い帰依もあり、薩摩藩の明や琉球との外交文書を司っていた。桂庵玄樹に始まる薩南学派とよばれる朱子学を継ぎ、﹃四書集註﹄に玄樹が施した訓点を改訂した[1]。
著書に﹃鉄炮記﹄﹃南浦文集﹄﹃日州平治記﹄﹃決勝記﹄などがある。
元和6年︵1620年︶9月30日、66歳で死去。墓所は鹿児島県姶良市の太平山安国寺︵墓は国の史跡に指定︶。
薩摩藩の剣術家であった東郷重位の剣術へ﹁示現流﹂との流派名を与えている。
主な著書
編集- 鉄炮記
- 南浦文集