古澤良治郎
日本のジャズ・ドラマー、作曲家 (1945-2011)
経歴
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仙台市出身。永く西荻窪に住んだが、終生仙台訛りで喋った[2]。国立音楽大学音楽学部打楽器科を卒業[1]。
在学中からジャズ・ドラマーを志し、この頃から板橋文夫とともに演奏することが多かった[3]。卒業後の1969年に本田竹広のグループに参加し、プロ・ドラマーとしての活動を始めた[1][4]。以降、自らがリーダーのグループをもちながら、山下洋輔トリオ、渋谷毅トリオ、ELBCTRO JAZZ GROUP︵本田竹廣、渡辺香津美など︶、向井滋春クインテット、本多俊之PROJECT 4、峰厚介クインテットなどをはじめ、数多くのグループ、セッションに参加する。
ジャズ/フュージョン系の活動と並行して、三上寛、加川良といったフォーク系の歌手とのコラボレーションをはじめ、浅川マキ、亀淵友香、吉田美奈子、忌野清志郎、伊藤銀次[5]などのライブやレコーディングに参加した。上々颱風との関わりも深く、アルバム﹃愛があるから大丈夫﹄︵1993年︶と﹃八十日間亜州一周﹄︵1994年︶をプロデュースしている。また、スタジオジブリ制作の映画﹃平成狸合戦ぽんぽこ﹄︵1994年︶では、上々颱風とともに音楽を担当し、サントラ盤のほか、イメージ・アルバムのプロデュースも行なった。
1999年、フジテレビの音楽番組﹃FACTORY﹄は、古澤の密着取材を行なってドキュメンタリー作品﹁FACTORY721 introduces 古澤良治郎﹂を制作した[1]。
2004年、古澤は、藤田傳演出の一人芝居﹃榎物語﹄の舞台に俳優として立った[6][7]。
古澤は、晩年まで、ね. 、Ashといったグループを率いて精力的な演奏活動を続け、亡くなる直前の2011年1月4日から7日まで、西荻窪アケタの店で、自ら主催する4日連続のライブイベントに出演していた。古澤は、1月12日昼、虚血性心不全で死去。この日は本田竹廣の命日でもあった[3]。
ディスコグラフィー
編集- YOU WANNA RAIN / 古澤良治郎カルテット+向井滋春 (1975)
- RACCO(ラッコ)/ 古澤良治郎クインテット (1977)
- SPICY ISLANDS/ 古澤良治郎グループ (1978)
- キジムナ/ 古澤良治郎 (1979)
- 12 617.4km 古澤良治郎の世界/ 古澤良治郎 (1980)
- あのころ/ 良治郎バンド&リーオスカー (1981)
- FRIENDLY/ 良治郎バンド&リーオスカー (1982)
- たまには/ 古澤良治郎 (1983)
- 良治郎さんの不思議な散歩/ 古澤良治郎 (1991)
- Better Days of RYOJIRO FURUSAWA/ 古澤良治郎 (1992)
- スタジオ・ジブリ「平成狸合戦ぽんぽこ」サウンドトラック・イメージアルバム [プロデュース作品] (1994)
- ね./ ね. (1996)
- 大往生~もうすぐ死にまっせ/ 古澤良治郎と大往生 (1998)
- Ash featuring 松川純一郎/ Ash (1998)
- SUBLIMATION/ LEE OSKAR WIYH RYOJIRO BAND
- ライオンのいるふうけい/ 古澤良治郎・大口純一郎 デュオ (2002)
出典・脚注
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(一)^ abcd“追悼 古澤良治郎FACTORY721 introduces 古澤良治郎”. フジテレビ. 2011年12月5日閲覧。
(二)^ 羽生一子 (2011年7月9日). “カムイ・トラノ﹁恩師の軌跡を訪ねて﹂~羽生一子からの手紙”. 御園ホテル. 2011年12月5日閲覧。
(三)^ ab板橋文夫 (2011年2月4日). “古澤良治郎さん、おつかれさま!”. 板橋文夫. 2011年12月5日閲覧。
(四)^ 池上比沙之 (2009年6月2日). “<ジャズを生きる>古澤良治郎・その1”. 池上比沙之. 2011年12月5日閲覧。
(五)^ ﹃ミュージック・ステディ﹄1983 8月号 No.7︵ステディ出版︶115~146ページ、1983年8月20日発行
(六)^ “古澤良治郎一人芝居”. ねすぱ. 2011年12月5日閲覧。
(七)^ ドラムサイズ編集部 (2011年1月17日). “訃報 日本を代表するジャズドラマー古澤良治郎が心不全で逝去”. ドラムサイズ.com. 2011年12月5日閲覧。
外部リンク
編集- 古澤良治郎のホームページ - ねすぱ