京兆府藍田県の出身。はじめは張載に師事し、熙寧10年︵1077年︶に張載が没すると程頤のもとに入門して学び、謝良佐・游酢・楊時とともに程門の四先生と称せられるまでになった。文章が良く六経に通じ、礼にもっとも精しく兄の呂大防とともに考究・論議した。元祐年間︵1086年-1094年︶に太常博士となり、秘書省正字にうつった。元祐7年︵1092年︶、政治家の范祖禹が呂大臨の学風と古人のごとき身の修め方を好み、講官に抜擢しようとしたが用いられる前に没した。著書として﹃玉渓集﹄﹃考古図︵中国語版︶﹄がある。