因幡民談記
成立
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作者の小泉友賢︵元和8年︵1622︶ - 元禄4年︵1691︶︶は鳥取藩の人物である。もともと岡山藩の池田光仲の家臣の家に生まれ、光仲が岡山から鳥取藩主へ国替えになったのに従って因幡国へ移った。まだ20歳の頃に京都で諸子百家や稗史など文学・史学を修め、江戸へ出て儒学者林羅山に師事し、さらに医術を学んだ。31歳から5年間鳥取藩で典医として仕えたあと、病を得て辞職した。その後は鳥取に暮らして在地の文化人と交わり、江戸時代初期の鳥取における文化を担った[2]。
友賢は20年を費やして因幡国各地をめぐり、現地に伝わる史料や古書、伝記を収集した。これをまとめたものが﹃因幡民談記﹄である[2][1]。
原型は1673年︵寛文13年=延宝1年︶に概ね完成していたとされている[1][3]。その後も修正や加筆が続けられ、1688年︵貞享5年=元禄1年︶に完成版となった[1][3]。これは鳥取藩の地誌書・歴史書としては最初のものだった[3]。
その後、複数の写本が作られた。友賢の自筆による原本は1720年︵享保5年︶に起きた鳥取の大火[注1]によって焼失したとされている[1][3]。
内容
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原本は現存しないため直接確認することはできないが、﹃因幡民談記﹄を参考に編纂された﹃因幡志﹄の序文の記述や、著者である小泉友賢の墓誌の記述から、﹃因幡民談記﹄原本は全10巻だったと推定されている[3][1]。
その内容は以下の8部構成だった[3][1]。
●因幡国郡郷山川図名所︵絵図系譜︶
●国主之部
●筆記之部
●郡郷之部
●詩文之部
●諸歌誹諧之部︵古書︶
●神社之部
●仏閣之部
このうち文量が最も多いのが﹁国主之部﹂で[1]、﹃因幡民談記﹄の中核部とみなされている[3][1]。この部では因幡国の歴史を、古代の国司、中世の守護、戦国時代の動静と鳥取城主の変遷、鳥取藩主池田家の治世などを軸に詳述している[1]。
また、名所・郡郷・神社・仏閣の部は因幡国の地誌が記されている[1]。
評価
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中心となる﹁国主之部﹂に関して、戦国時代の記述について、但馬国をはじめ因幡国や伯耆国など山陰地方一円の守護職を務めた山名氏の内紛に関する言及が不十分であるとする指摘がある。これは、因幡国に隣接する但馬国の村岡藩︵6700石︶を山名氏の後裔が治めていたので[注2]、これに遠慮したものと考えられている[3]。
因幡国郡郷山川図名所︵絵図系譜︶と筆記・詩文・諸歌誹諧︵古書︶の部は、資料編としての位置づけである[1]。筆記の部は、散逸してしまっている史料の内容を多く伝えており、貴重とされている[3]。また、地誌に相当する部分のなかにも、因幡国の歴史を知る上で重要とされる﹁因幡国郡郷保庄記﹂が史料として掲載されており、これらが歴史書・歴史資料としての﹃因幡民談記﹄を価値の高いものとしている[3][1]。
同書の研究は徳永職男鳥取大学元教授のものが有名であり、永らく鳥取県の中世史研究において重要な史料とされていたが、近年の研究によれば江戸初期という時代背景からも同書の史料批判は不十分であり、史料というよりも論考・資料として扱う方が良いとされている[要出典]。
写本
編集影響
編集脚注
編集注釈
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(一)^ 2530戸を焼失した。
(二)^ 村岡藩を治めた山名氏は、大名家としてではなく、旗本︵交代寄合︶として治めていた[3]。﹃因幡民談記﹄執筆当時の村岡藩山名家の当主は山名矩豊である。
(三)^ ﹃鳥府志﹄は著者の岡嶋家の秘伝とされており、明治時代まで公にされなかった。執筆は1826年から1829年にかけて行われたと目されているが、現存するものは全体として未完成な部分が散見され、最終的な完成版として表されたものであるかどうかはわかっていない[6]。
出典
編集参考文献
編集外部リンク
編集- 国立国会図書館デジタルコレクション『因幡民談記』(大正3年刊行版)