壱志濃王
経歴
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称徳朝の天平神護3年︵767年︶无位から従五位下に直叙される。
宝亀元年︵770年︶伯父の光仁天皇が即位すると、他の従兄弟の諸王が春日宮御宇天皇︵志貴皇子︶の皇孫として二世王待遇となって従四位下の叙位を受けるが、壱志濃王は翌宝亀2年11月︵772年1月︶になってから四階昇進して従四位下に叙せられている。光仁朝において天皇の甥として重きを成し、桓武朝も含めて以下の通り朝廷の重大な祭祀の使者を多く務めた。
●宝亀9年︵778年︶正月に光仁天皇皇后の井上内親王の改葬のために派遣[1]
●宝亀9年︵778年︶5月に光仁天皇の異母姉の坂合部内親王の喪事を監護[2]
●天応元年︵781年︶12月に光仁天皇皇子の薭田親王の喪事を監護[3]
●天応2年︵782年︶8月に光仁天皇陵を改葬するために大和国へ派遣[4]
●延暦4年︵785年︶10月に皇太子・早良親王を廃した事情を告げるために光仁天皇陵へ派遣[5]
●延暦7年︵788年︶5月に桓武天皇の夫人・藤原旅子の喪事を監護[6]
●延暦9年︵790年︶閏3月に桓武天皇の皇后・藤原乙牟漏の喪事にて山作司を担当[7]
またこの間、宝亀9年︵778年︶縫殿頭、宝亀10年︵779年︶右大舎人頭、宝亀11年︵780年︶左大舎人頭と京官を歴任した。
従兄弟にあたる桓武天皇とは酒飲み仲間であったと伝えられ、天応元年︵781年︶の桓武天皇即位後まもなく従四位上に叙され、天応2年︵782年︶治部卿、延暦5年︵786年︶正四位下への叙任を経て、延暦6年︵787年︶参議に任ぜられ公卿に列した。
延暦12年︵793年︶賀茂大神[8]と伊勢神宮[9]へ平安京遷都を告げる使者に任じられ、同年従三位に叙せられた。その後も延暦13年︵794年︶中納言、延暦17年︵798年︶には正三位大納言︵弾正尹を兼ねる︶に昇進し、太政官において右大臣の神王に次ぐ位置を占めた。延暦24年︵805年︶11月12日薨去。享年73。最終官位は大納言正三位兼弾正尹。桓武天皇は壱志濃王の死を悲しんで従二位の位階を贈位した。
人物
編集官歴
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注記のないものは﹃六国史﹄による。
●天平神護3年︵767年︶ 正月18日‥従五位下︵直叙︶
●宝亀2年︵771年︶11月25日‥従四位下︵越階︶
●宝亀9年︵778年︶8月20日‥縫殿頭
●宝亀10年︵779年︶9月‥右大舎人頭[11]
●宝亀11年︵780年︶9月‥左大舎人頭[11]
●天応元年︵781年︶4月15日‥従四位上
●天応2年︵782年︶ 閏正月17日‥兼讃岐守。2月14日‥治部卿
●延暦5年︵786年︶ 正月7日‥正四位下。9月29日‥山城国班田使長官
●延暦6年︵787年︶8月16日‥参議
●延暦12年︵793年︶ 正月26日‥兼越前守[11]。6月‥従三位[11]
●延暦13年︵794年︶10月27日‥中納言[11]
●延暦17年︵798年︶7月5日‥兼弾正尹[11]。8月16日‥正三位・大納言[11]
●延暦24年︵805年︶11月12日‥薨去︵大納言正三位兼弾正尹︶、贈従二位