三善康連
鎌倉時代の武士
(太田康連から転送)
生涯
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建久4年︵1193年︶、三善康信の子として誕生した。
律令などの法制に通じて早くから甥の康持・倫重らとともに重んじられた。父から備後国世羅郡太田荘の半分の地頭職を譲られ、同荘桑原方︵現在の広島県世羅町︶を所領する。貞応2年︵1223年︶4月に玄蕃允に任じられる。
嘉禄元年︵1225年︶に評定衆が設置された際にその一員となる。貞永元年︵1225年︶に執権北条泰時の命を受け、御成敗式目の条文制定の中心人物の一人として携わった︵﹃吾妻鏡﹄より︶。天福元年︵1233年︶12月に賀茂社修造の功績によって民部大丞に任じられ、更に従五位下に叙せられる。このため、﹁民部大夫﹂と呼ばれた。嘉禎元年︵1235年︶に阿波守に任じられる。寛元4年︵1246年︶の宮騒動で甥の康持が失脚したために、同年8月に替わって問注所執事︵第4代︶に任じられて、死の直前の康元元年9月28日まで務めた。
康元元年︵1256年︶、死去。享年64︵﹃吾妻鏡﹄による。﹃関東評定衆伝﹄では65とする︶。