宗晴康
日本の大名
生涯
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文明7年︵1475年︶、宗氏の一門・家臣である宗盛俊の子として誕生。
初めは僧であったが還俗し、天文8年︵1539年︶に、甥でもある宗氏15代当主・宗将盛が追放されると、家臣に推されてその嗣子という形で当主となる。還俗後は貞尚︵さだなお︶、貞泰︵さだやす︶と称し、天文11年︵1542年︶正月に室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱を受けてからは晴茂︵はるしげ︶、晴康︵はるやす︶と名乗った[1]。
晴康の頃、対馬国内には宗氏の分家が38家もあり、所領が細分化されていた。晴康は宗氏の勢力を統一するために、天文15年︵1546年︶に本家以外が宗姓を名乗ることを禁じ、所領の統一化や宗氏の戦国大名化を図った。
天文22年︵1552年︶、家督を子の義親︵のちの義調︶に譲り、永禄6年︵1563年︶に89歳で死去した。