実恵
786?-847, 平安時代前期の真言宗の僧
生涯
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●延暦年間︵782年-806年︶、奈良東大寺の泰基[2]に法相︵唯識︶を学ぶ。
●大同2年︵807年︶、受戒︵一説に延暦23年︵804年︶︶。
●弘仁元年︵810年︶、一説にこの年空海から灌頂を受ける。
●弘仁3年︵812年︶、杲隣、智泉とともに高雄山寺三綱に任じられる。
●弘仁7年︵816年︶から泰範とともに空海の高野山開創に尽力。
●天長4年︵827年︶、観心寺︵大阪府河内長野市︶を創建。
●承和3年︵836年︶5月、権律師︵一説に律師︶に任ぜられ、東寺長者となる。
●承和4年︵837年︶、一説に律師に任ぜられる。
●承和7年︵840年︶9月、少僧都に任ぜられる。
●承和10年︵843年︶11月、東寺二長者を創設し真済を任ずる。
● 同月、上表により真言宗の伝法灌頂職位が制定される。12月、伝法・結縁灌頂の道場として東寺灌頂院を創設し、真紹に伝法灌頂職位を授ける。
●承和12年︵845年︶、空海が天長5年に開設した学校である綜芸種智院を売却し、丹波国大山荘を買取。東寺伝法会の財源とする。
●承和14年︵847年︶11月13日[3]、河内国にて入滅。享年62。檜尾山に葬られる。
●安永3年︵1774年︶8月、道興大師の諡号を賜る。
弟子
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元慶2年11月11日の真雅言上状[4]によれば、実恵の付法弟子は以下の2人。
●恵運…東大寺泰基、薬師寺中継に法相宗を学び、後に実恵から密教を学んで灌頂を受ける。入唐八家の一人。少僧都。
●真紹…空海に師事し、後に実恵から灌頂を受ける。少僧都。
そのほか師弟関係が伝えられる者
そのほか師弟関係が伝えられる者
●宗叡…比叡山で円珍から天台宗を学び両部大法を受けるが、後に東寺に移住して実恵から金剛界大法を受け、真紹から灌頂を受ける。入唐八家の一人。僧正。
●源仁…興福寺護命に師事するが、後に実恵から密教を学び、真雅の灌頂を受け、宗叡からも灌頂を受ける。権少僧都。
補注
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(一)^ 享年62説による。享年を63、61とする説もあり、生年は定かでない。
(二)^ 智灯﹃弘法大師弟子伝﹄、道猷﹃弘法大師弟子譜﹄では大安寺泰基となっているが、貞観9年に恵運が記した﹁安祥寺伽藍縁起資財帳﹂︵平安遺文1-164︶に﹁東大寺泰基﹂とあるほか、﹃高野雑筆集﹄所収の﹁両相公﹂宛書簡に﹁東大杲隣・実恵﹂とあり、実恵が東大寺を本寺としていたことが明らかなので、東大寺が正しい。
(三)^ 入滅の日について、他に12月12日、10月など諸説ある。国史に実恵の死亡記事はないが、この年の12月2日に律師長訓が少僧都になっているので、11月までに死去したとみられる。
(四)^ ﹁本朝伝法灌頂師資相承血脈﹂︵﹃大日本古文書﹄家わけ19、醍醐寺文書之一、279号︶所載。