寒山
唐代に国清寺にいたとされる風狂僧
寒山 | |
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生没年不詳 | |
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尊称 | 寒山子 |
宗派 | 禅宗? |
寺院 | 天台山国清寺 |
師 | 豊干 |
著作 | 『寒山詩』 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/64/%E5%B0%BE%E7%AB%B9%E5%9B%BD%E8%A6%B3%E3%80%8C%E5%AF%92%E5%B1%B1%E6%8B%BE%E5%BE%97%E5%9B%B3%E3%80%8D.jpg/250px-%E5%B0%BE%E7%AB%B9%E5%9B%BD%E8%A6%B3%E3%80%8C%E5%AF%92%E5%B1%B1%E6%8B%BE%E5%BE%97%E5%9B%B3%E3%80%8D.jpg)
人物像
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伝歴は不明な点が多く、時代も初唐の人とされる。他にも貞観年間︵627年-649年︶の人とも、大暦年間︵766年-779年︶ともいわれている。しかし﹃寒山子詩﹄の中唐以降の詩風とは一致していない。その名は、始豊県西方70里の寒巌である翠屏山︵すいへいざん︶を居所としていたことにちなむものとされる。その山は暑気のきびしい時にも残雪があり、寒巌と名付けられていたので、自ら寒山子と号したという。その風姿は、痩せこけたもので、樺の冠をかむり、衣はボロで木靴を履いた奇矯なものであったという。食事は、国清寺の厨房を任される拾得から残飯を得ていたといい、寺僧に咎められると、大笑いして走り去ったという。虎を連れた姿で知られる豊干禅師の弟子とされ、豊干を釈迦、寒山を文殊、拾得を普賢の化身に見立てるものもある。
台州刺史の閭丘胤が国清寺を訪ねた時、拾得と共に大笑しながら寒巌に姿を隠し、二度と姿を見ることは無くなったとされる︵森鷗外が、﹁寒山拾得﹂として作品化している︶。その後、山中の諸処に書かれていた詩300篇余りが発見され、それが﹃寒山子詩﹄であるとされている。寒山の詩には皆竹や木や壁に書かれたといわれ、題名がない。その内容は雑多であり、とうてい一人の作者の手になるとは考えられないが、その大部分は仏教的な勧俗的で、王梵志の影響を受けている。豊干と拾得の詩を合わせて収められており、﹃寒山詩集﹄﹃三隠集﹄ともいう。
﹃宋高僧伝﹄巻19﹁感通篇﹂に、﹁唐天台山封干︵豊干︶師伝﹂があり、寒山子・拾得として附伝されており、﹃景徳伝灯録﹄巻27にも、﹁天台豊干禅師 天台寒山子 天台拾得﹂として記録されている。
なお道教史書を数々編纂した五代の杜光庭による﹃仙伝拾遺﹄中にも、寒山が収められており、そこでは道士が﹃寒山子詩﹄を集めたことになっている。
寒山ギャラリー
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仙厓義梵筆「寒山拾得図」
脚注
編集文献
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●入矢義高﹃中国詩人選集5 寒山﹄︵岩波書店, 初版1958年︶ ISBN 4001005042
●﹃新修 中国詩人選集1 陶淵明・寒山﹄ 岩波書店、1984年。前者は一海知義注
●西谷啓治﹃寒山詩﹄ 筑摩書房, 1986年
●﹃寒山詩・詩偈 西谷啓治著作集 第12巻﹄︵創文社, 1987年︶ ISBN 442319712X。※後者は日本の禅僧作品
●﹃禅家語録2 寒山詩 ほか﹄︵筑摩書房︿世界古典文学全集 第36巻B﹀、初版1974年、復刊1984年、2004年︶
●入谷仙介・松村昂﹃禅の語録13寒山詩﹄︵筑摩書房,1970年、新版2016年︶ ISBN 4480323139
関連項目
編集外部リンク
編集- 『寒山』 - コトバンク
- 『寒山拾得』-コトバンク