小町紅
概要
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江戸時代の口紅は、紅花の花弁に含まれるわずかな赤色色素を抽出し精製したもので、現在の油性基材の口紅とは異なる。口紅の製造は、紅屋または紅染屋が紅染めの兼業として行う形態が主であり、小間物屋や薬種問屋といった化粧品を扱う店では、紅屋から仕入れた口紅の卸売りを行うことが多かった。抽出・精製した口紅は、陶磁製の猪口や皿、あるいは貝殻などの内側に塗った状態で販売された。先般、新宿区の内藤町遺跡から﹁小町紅﹂と書かれた肥前系磁器の紅猪口︵推定年代1780~江戸時代︶が発掘されている[1]。なお、紅の容器と思しきものが文献上に確認できるのは平安時代からで、﹃江家次第﹄に﹁口脂筥﹂、﹃香取宮遷宮用途記﹄には﹁紅粉佐良﹂、﹃類聚雑要抄﹄には﹁紅粉盤﹂とある。
天保2年︵1832年︶に出版された、当時のショッピングガイド誌﹃商人買物独案内﹄︵京都編︶には、﹁御用小町紅﹂として京都四条通麩屋町東の﹁紅平﹂︵紅屋平右衛門︶の名が収載されている。同書には、紅平以外にも﹁小町紅﹂を取り扱う店として、祇園町の高島屋喜兵衛、伊勢屋五三郎、美濃屋吉郎兵衛の店などを載せている。
前掲書に先立ち、江戸で出版された﹃江戸買物独案内﹄︵文政7年・1824年刊行︶によれば、江戸でも近江・伊勢系商人の店で﹁小町紅粉﹂を扱っていたことが確認できる。口紅の製造の主体は長く京都にあり、江戸ではもっぱら下り物を扱っていた。江戸で口紅の製造・販売が行われるようになるのは、江戸時代後期以降と考えられている。
小町紅は、当時の口紅のいわばトップブランドで、良質ゆえに非常に高価であった。一般庶民が容易く購入できる口紅ではなく、主な購入者は御殿女中や豪商の婦女子、花柳界の遊女といった粋筋の人々だった。良質な紅は、容器の内側に塗り自然乾燥させると、赤色ではなく笹色︵玉虫色︶の輝きを放った。﹃江戸買物独案内﹄の中に﹁笹色飛光紅﹂を扱う﹁玉屋﹂︵玉屋善太郎の店︶という紅問屋の広告が収められている。玉屋はもともと京都の紅問屋で、小町紅の販売を行っており、江戸の日本橋本町二丁目に出店していた。﹃熈代勝覧﹄本町二丁目の風景の中に玉屋が描かれており、同資料には当時の紅屋の看板であった赤い幟が、玉屋の脇に確認できる。
脚注
編集参考
編集- 名所江戸百景:56. 駒形堂吾嬬橋には、紅屋の看板であった赤い幟が描かれている。