小笠原明峰
日本の映画監督、脚本家、無声映画時代の京都の映画会社「小笠原プロダクション」を率いた実業家である。小笠原長生の長男。
来歴・人物
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1900年6月26日、旧唐津藩主、子爵小笠原家第14代当主小笠原長生︵元海軍中将、元宮中顧問官、元学習院御用掛︶を父とし、秀子︵元前橋藩主、伯爵松平直方の長女︶を母とし、その長男として東京府東京市に生まれる。
1923年、﹁小笠原明峰﹂を名乗り、23歳にして京都で﹁小笠原プロダクション﹂を設立、片岡千恵蔵︵当時本名の植木進︶らが専属となった。当時華族と映画界のかかわりは深く、同社には古川ロッパ︵男爵加藤照麿の六男︶も専属となっていたほか、東坊城恭長︵子爵東坊城徳長の三男、女優入江たか子こと東坊城英子の兄、1925年に日活に入社し俳優、のちに映画監督となる︶らも出入りしていた。明峰の次弟、小笠原章二郎も俳優となり同社に専属、﹁三善英芳﹂名義で監督もした。
植木進、ロッパは、同社の設立第1作﹃三色すみれ﹄︵1923年︶に出演することで映画界のキャリアを始めているが、植木はマキノ省三に引き抜かれ、﹁片岡千恵蔵﹂としてマキノ御室撮影所で1927年に本格デビューを果たし、ロッパは小笠原の次作﹃愛の導き﹄︵1923年3月24日公開︶に主演した後は、同様にPCL映画製作所に移籍している。東坊城も1924年の﹃泥棒日記﹄﹃海賊島﹄に端役で出演することで俳優としてデビューしているが、同年内に京都・嵯峨野の日活京都第二撮影所に移籍している。
同社は1923年に製作を開始したが、1926年末で活動を停止した。1928年、弟・章二郎は日活太秦撮影所に入社、﹁楠英二郎﹂名義で俳優として活動、監督業は廃業した。
1930年には、弟の所属する日活太秦撮影所で、日本海海戦を描いた大作映画﹃撃滅﹄を監督する。同映画は父長生自らが原作に携わり︵長生は当時軍令部参謀を務めていた︶、そして楠英二郎︵章二郎︶が父の役を演じた。1932年には新興キネマ京都太秦撮影所で戦争ものを1本撮るが、それ以降の作品はない。
1946年6月20日に死去。45歳没。遺した作品はすべて無声映画だった。
明峰は長生の長男であり、﹁第15代当主﹂となる立場であったが、映画界に入ったため、1935年1月に廃嫡。次男の章二郎も同様に映画界入りしたためは分家扱いとなった[1]。。さらに三男長孝︵ながよし、1915年2月 - 1946年9月︶は父長生に先立って没したため、家督は四男長勝︵ながかつ、1920年11月 - 1994年︶が継承した。また、1960年代にピンク映画に数多く出演した女優松井康子︵牧和子︶は、姪︵妹・宏子の娘︶にあたる。
フィルモグラフィ
編集小笠原プロ時代
編集- 『三色すみれ』 Love in Idleness 1923年 監督・脚本 小笠原映画研究所作品
- 『愛の導き』 1923年 監督・脚本
- 『行けロスアンゼルス』 1923年 脚本 監督小笠原章二郎(三善英芳名義)
- 『泥棒日記』 1924年 原作・脚本 監督三善英芳
- 『吹雪の夜』 1924年 原作・脚本 監督三善英芳
- 『風船売りの小母さん』 1924年 製作 監督・原作・脚本水谷登志夫
- 『海賊島』 1924年 監督・原作
- 『落葉の唄』 1924年 監督
- 『久遠の響』 1924年 原作・脚本 監督栗原トーマス(栗原喜三郎名義)
- 『水兵の母』 1925年 監督
- 『天馬嘶く』 1925年 脚本指揮 監督三善英芳
- 『遺言』 1925年 監督・原作・脚本
- 『男を磨け』 1925年 脚本 監督三善英芳
- 『極楽島の女王』 1925年 監督 特作映画社作品 ※先祖ゆかりの伝承がある小笠原諸島で撮影
- 『我れは海の子』 1926年 監督・脚本 共同監督三善英芳
他社
編集参考文献
編集- 『資料 高松豊次郎と小笠原明峰の業跡』(日本映画史素稿 第9巻) 1974年 フイルム・ライブラリー協議会
脚注
編集- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、512頁。ISBN 978-4-06-288001-5。