山本巌
プロフィール
編集来歴
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新田高校を経て、早稲田大学︵以下、早大︶へ進む。
早大1年時に出場した、1966年︵1965年度︶1月15日に花園ラグビー場で行われた第3回日本ラグビーフットボール選手権大会︵以下、日本選手権︶において、9対9の同点で迎えたノーサイド寸前に、同大会連覇を狙う八幡製鐵が痛恨のペナルティを取られ、早大がペナルティ・キック(PK)を得た。キッカーを務めた山本はそれを決め、早大は初の日本一を手中にした。
早明戦は2年時より3年連続で出場。4年時には早大の主将を務めた。また、全国大学ラグビーフットボール選手権大会︵大学選手権︶でも1965年度、1966年度において優勝を経験。
早大卒業後、リコーに入社。﹃和製オールブラックス﹄の異名を取り、大卒のスタープレーヤーばかりを集めたタレント軍団の一員として、全国社会人ラグビーフットボール大会︵全国社会人大会︶で3回、日本選手権で2回の優勝に貢献した。そして1973年、カーディフで行われたウェールズ代表との一戦で、ラグビー日本代表︵以下、日本代表︶に選出されて出場し、キャップ1を獲得した。
現役引退後、日本代表監督を3回︵1980年、1982年、1996年︶、またチームが結成されたばかりだったサントリーの監督等を歴任した後、2007年より松山大学ラグビー部監督に就任した。
関連項目
編集参考文献
編集- 『ビデオ 荒ぶる 早稲田ラグビーの70年』 Sports Graphic Number 編 - 文藝春秋
- 松山大学ラグビー部監督に元日本代表監督山本巌さん就任 - 松山大学オフィシャルサイト2007年3月1日付
- 『ザ・ワールドラグビー』 (大友信彦 編、新潮社、ISBN 4104627011)の49ページ
- 『ラグビー 早明戦80年』 (ベースボール・マガジン社、ISBN 4583613016)