山村暮鳥
日本の詩人 (1884 - 1924)
生涯
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1884年1月10日、群馬県西群馬郡棟高村︵現在の高崎市︶に生まれる。父・木暮久七、母・志村シヤウの長男。父は、西群馬郡元総社村の農家・木暮巳之吉の二男で、暮鳥が生まれた当時まだ志村家に未入籍。母方の祖父・志村庄平の二男﹁志村八九十﹂︵しむらはくじゅう︶として、出生届け。弟妹にアサ、リウ、仁才、雪江、涼、百合子、明石。
1889年、父・久七が祖父・庄平との確執に耐えきれず千葉県佐原町に出奔、母もその後を追って志村家を出たので、八九十は叔父・木暮作衛に預けられる。後に父母が元総社村に戻り住むに及び、引き取られ、5月1日、父・久七の養子として入籍。貧困の中で少年期を過ごす。
1899年に堤ヶ岡尋常小学校︵現在の高崎市立堤ヶ岡小学校︶の代用教員となる。働きながら前橋の聖マッテア教会の英語夜学校に通い、受洗。
1902年、同教会の婦人宣教師ウォールの通訳兼秘書として青森に転任。
1903年、東京府築地の聖三一神学校︵後の聖公会神学院︶に入学。神学校在学中より詩や短歌の創作をはじめ、前田林外らの雑誌﹁白百合﹂に木暮流星の筆名で短歌を発表。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として秋田、仙台、水戸などで布教活動に携わる。
1909年、人見東明から﹁静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥﹂という意味をこめて﹁山村暮鳥﹂の筆名をもらう。
1913年7月、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする﹁にんぎょ詩社﹂を設立。
1914年3月、同社の機関誌﹁卓上噴水﹂創刊。
1913年12月、教会の信者や知人達を中心に﹁新詩研究会﹂を結成。機関誌﹁風景﹂には萩原朔太郎、室生犀星の他、三木露風らが参加。
1919年、結核のため伝道師を休職。
1924年12月8日、肺結核に悪性腸結核を併発し、茨城県東茨城郡大洗町の借家﹁鬼坊裏別荘﹂で死去[1]、40歳。
自然のあらゆるものに神を見いだす彼独特の神学は、しばしば熱狂的な信徒を怒らせ、異端として追放された事も数多くあったという。
萩原朔太郎は﹁彼自身の見たる如き、ちがつた意味での基督教を信じてゐたにちがひない﹂と、追悼文﹃山村暮鳥のこと﹄で述べている。
著書
編集詩集
編集童謡・童話
編集- 童話集「ちるちる・みちる」1920年刊行
- 「鉄の靴」1922年刊行
- 「萬物の世界」1922年刊行
- 「よしきり」1925年刊行
- 「聖フランシス」
随筆
編集- 「小さな穀倉より」1917年刊行
小説
編集- 「十字架」1922年刊行
翻訳
編集- 「ドストイヱーフスキイ翻訳集」1918年刊行
教科書
編集脚注
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(一)^ 岩井寛﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶343頁
(二)^ ﹃光村国語教科書(令和5年度)﹄光村教科書、2023年2月15日、14頁。
(三)^ ﹃雲﹄山村暮鳥、1925年。
関連項目
編集外部リンク
編集- 山村 暮鳥:作家別作品リスト - 青空文庫
- Takemoto Hiroaki Page - 関係文献リストと「三人の処女」「聖三稜玻璃」のテキストを掲載
- 『La Bonne Chanson』 - 「三人の処女」以前に自費出版した詩集
- 山村暮鳥 詩一覧 - ウェイバックマシン(2019年3月30日アーカイブ分)
- 橋本山吹の聖ぷりずむ堂 - ウェイバックマシン(2004年10月30日アーカイブ分) - 山村暮鳥の項に「風は草木にささやいた」「ちるちる・みちる」「夏の歌」、萩原朔太郎著「山村暮鳥のこと」のテキストを掲載
- 山村暮鳥(日本詩人愛唱歌集) - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分) - 暮鳥の詩による音楽作品のリスト
- 山村暮鳥研究 - ウェイバックマシン(2018年11月5日アーカイブ分) - 長編童話『鉄の靴』を中心に