平塚運一
1895-1997, 版画家
平塚 運一(ひらつか うんいち、1895年11月17日 - 1997年11月18日)は、島根県八束郡津田村(現松江市)出身の版画家。勲三等瑞宝章受章(1977年)、松江市名誉市民(1989年)[1]。
平塚 運一 | |
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誕生日 | 1895年11月17日 |
出生地 | 島根県八束郡津田村(現松江市) |
死没年 | 1997年11月18日 (102歳没) |
国籍 |
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芸術分野 | 版画 |
経歴
編集
1895年︵明治28年︶11月17日、島根県八束郡津田村︵現松江市︶に生まれた。島根県立松江商業学校に入学したが、1913年︵大正2年︶に中途退学し、松江市役所に勤務。石井柏亭の洋画講習会がきっかけとなり、1915年︵大正4年︶に上京してデッサンに励み、さらに版画技術を会得[1]。1916年︵大正5年︶には、二科展に版画作品が入選し、日本美術院展には油彩作品と水彩画作品が入選した。1917年︵大正6年︶に帰郷して結婚し、公立小学校の図画教員となった[1]。
1926年︵大正15年︶3月、前年の第4回国画創作協会展への出品を通じて同会の新会友に推薦される。この際の肩書には創作版画協会同人、円鳥会同人とあった[2]。
1927年︵昭和2年︶から棟方志功らを指導し、1928年︵昭和3年︶には棟方や畦地梅太郎とともに雑誌﹃版﹄を創刊。1930年︵昭和5年︶には国画会の会員となった。1935年︵昭和10年︶には東京美術学校の版画教室開設にともなって教壇に立ち、1941年︵昭和16年︶からは日本女子高等学院や公立中学校でも教えた。1946年︵昭和21年︶には山根幹人︵映画監督︶らの協力を得て松江美術工芸研究所を開設した。1962年︵昭和37年︶には渡米して、活動拠点をワシントンD.C.に移し、アメリカ各地で個展を開くとともに版画の普及に努めた[1]。日本国内においても地方での版画普及活動に熱心であり、棟方、畦地、菊地隆知、北岡文雄など日本を代表する版画家を育てた。
1977年︵昭和52年︶には勲三等瑞宝章を受け、1989年︵平成元年︶には松江市名誉市民に推挙された[1]。長野県内の版画普及に携わった功績を称えられ、1991年︵平成3年︶には須坂市に須坂版画美術館・平塚運一版画美術館が開館した[3]。1997年︵平成9年︶11月18日、102歳で逝去した。
参考文献
編集- 『平塚運一展 木版画に捧げた102歳の生涯』東京ステーションギャラリー、2000年