幽玄

日本の芸術文化における理念






概要

編集













彿14︿︿ ()


和歌の幽玄

編集

古くは、『古今和歌集』の真名序において「興或は幽玄に入る」として用いられている。『古今和歌集』の撰者の一人である壬生忠岑は、歌論『和歌体十種』の高情体の説明において「詞は凡そ流たりと雖も、義は幽玄に入る、諸歌の上科と為す也」と表現し、高情体を十種の最高位としている。

平安時代後期の歌人藤原基俊は、歌合の判詞において「言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし」「詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり」と残している。基俊に師事した藤原俊成は、歌合の判詞の中で、幽玄を「姿既に幽玄の境に入る」「幽玄にこそ聞え侍れ」「幽玄の体なり」「心幽玄」「風体は幽玄」と批評用語として多用した。また藤原俊成の子で『新古今和歌集』・『百人一首』の撰者である藤原定家は、歌論『毎月抄』の中で和歌を分類した十体の一つとして、幽玄様を挙げている。

もう一つの幽玄を確立したといわれる俊恵の弟子の鴨長明は、その著書『無名抄』の中で、幽玄を「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」「心にも理深く詞にも艶極まりぬれば、これらの徳は自ら備はるにこそ」と、問答形式の中で定義している。

室町時代の歌人正徹は、歌論『正徹物語』の中で、「人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。皆一に心得たる也。」と記している。

連歌の幽玄

編集



姿

姿

関連項目

編集

参考文献

編集
  • ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
  • デジタル大辞泉
  • 世界大百科事典 第2版
  • 大辞林 第三版
  • 日本大百科全書

外部リンク

編集