新城幸也

日本の自転車競技(ロードレース)選手

新城 幸也(あらしろ ゆきや、1984年〈昭和59年〉9月22日 - )は、沖縄県石垣市登野城出身のサイクルロードレース選手。バーレーン・ヴィクトリアス所属。沖縄県立八重山高等学校卒業。

新城 幸也
Yukiya Arashiro

ツール・ド・フランス2017 第2ステージ

基本情報
本名 新城 幸也
あらしろ ゆきや
愛称 ゆきや
生年月日 (1984-09-22) 1984年9月22日(39歳)
国籍 日本の旗 日本
出身地 沖縄県石垣市登野城
身長 170cm
体重 65kg
選手情報
所属 バーレーン・ヴィクトリアス
分野 ロードレース
役割 選手
特徴 パンチャー
プロ経歴
2006
2007-2008
2009-2010
2011-2015
2016
2017-2019
2020
2021-
Team Vang
梅丹本舗
Bbox ブイグテレコム
チーム・ヨーロッパカー
ランプレ・メリダ
バーレーン・メリダ
バーレーン・マクラーレン
バーレーン・ヴィクトリアス
主要レース勝利

ツール・デュ・リムザン

総合優勝 2012
第2ステージ 2008

アジア選手権

個人ロードレース 2011

日本の旗全日本選手権

個人U-23ロード 2006
個人U-23タイムトライアル 2006
個人エリートロード 2007・2013、2022

ツール・ド・フランス

第4ステージ敢闘賞(2012)
第6ステージ敢闘賞(2016)

獲得メダル

ロードレース
アジア自転車競技選手権大会
2011 ナコンラチャシマ 個人ロード
最終更新日
2022年7月2日

200971320102015320124[1]

経歴

編集

ハンドボール時代

編集

小学校5年生のときに初めてロードバイクに乗ったが、中学2年でハンドボールに出合いハンドボール中心の生活を送り、自転車に乗るのはトライアスロンの時だけだったという。高校3年夏でハンドボール部を引退した後、父の知り合いのロードレース選手・福島晋一ツアー・オブ・ジャパン宇都宮ステージで優勝した際のビデオテープを見て自転車競技の道を志す。

ロードレースへの転向

編集

福島に才能を見込まれ、高校卒業後に本格的に自転車競技へ転向。福島が航空券の費用を出し渡仏、フランスへ自転車留学した後、アンカーエスポワールに所属。

2006年はチームブリヂストン・アンカーに所属していた福島らとともに、新しく発足した日本初の独立チームであるチーム・バン・サイクリングに移籍、ツール・デュ・リムザン(Tour du Limousin)で総合3位を獲得。そしてU-23部門での日本選手権で逃げ切りを決め優勝。

2007年からはチーム・バンの活動停止を受け、ほぼ同メンバーにより結成された新チームエキップアサダ(2007年=NIPPOコーポレーション・梅丹本舗・エキップアサダ、2008年=梅丹本舗・GDR)に所属する。この年、土砂降りと濃霧で大混乱となった日本選手権で優勝する。

2008年にはツール・デュ・リムザンで自身2度目の総合3位と区間優勝を獲得。

イタリアのヴァレーゼで開催された2008年ロード世界選手権大会に日本代表として出場するも、完走選手中最下位の77位[1]

2009年

編集

大きなレースで上位入着を重ねた実力が認められ、2008年12月からはUCIプロチームであるBbox ブイグテレコムと1年間の契約を結び、プロツアー選手となった。

ツール・ド・フランス

編集

200919962[2]2009625[3]

2009256調3[4]

その他

編集

同年9月の世界選手権では、序盤から逃げ集団に加わって、全19周のうち残り4周まで逃げ続けるという活躍を見せた[5](レースそのものは未完走[6])。

2010年

編集

2010年シーズンは新城にとって大きく飛躍を遂げる年となった。

ジロ・デ・イタリア

編集

20105320225

17131813202618m53222191062293

ツール・ド・フランス

編集

先のジロ・デ・イタリアに引き続き二年連続でツール・ド・フランス出場を果たした。尚、同年にグランツール二大会出場を果たしたのは日本人選手初の快挙である。役割としてはトマ・ヴォクレールと2人で大逃げを狙うのがメインだが、逃げに失敗した場合にはセバスティアン・テュルゴの発射台、もしくは単独でのスプリントと多数の任務を抱える重要な選手となった。

第11ステージではゴール前スプリントに絡み、マイヨ・ヴェールトル・フースホフトをゴールライン手前で差すなど世界の並み居る強豪スプリンター達を相手に全く引けを取ることなく、見事6位に入賞。

その他

編集

10月3日にオーストラリアメルボルンで開催された世界選手権自転車競技大会エリート男子ロードレース部門に別府史之土井雪広と共に日本ナショナルチームで出場し、優勝したノルウェートル・フースホフトと同タイムの9位でゴール、近代自転車ロードレースに於ける日本人過去最高成績を残した[注 2]

世界選手権から1週間後の10月10日、伝統のクラシックレース「パリ〜ツール」にブイグテレコムのエースとして出場し、ゴールスプリントに絡み5位入賞を果たす。

2011年

編集

2010年一杯で現所属チームのメインスポンサーであるブイグテレコムが撤退したが、新スポンサーとして大手レンタカー会社のヨーロッパカーが加わることが決まり、新城もチームと2年間契約を延長した[7]

2012年

編集

 5

41

51[8]

728 48

817 [9]

ツール・ド・フランス

編集

630224215

34238328km200925[3]

163

2229138433(52pts)25(18pts)43 (21)4 (21)8

2013年

編集
 
日の丸のチャンピオンジャージで走行する新城

62320076[10]823 2102015[11]

ツール・ド・フランス

編集

4[12]

21259km1299

2014年

編集

4月20日、アムステルゴールドレースにて、アルデンヌクラシック日本人選手史上最高位となる10位に入る[13]

ジロ・デ・イタリア

編集

ジロ・デ・イタリアに2回目の出場。3度の落車を乗り越えて総合成績128位で完走を果たした。

ツール・ド・フランス

編集

ツール・ド・フランスに3年連続5回目の出場。過去最高の総合成績65位で完走を果たした。

2015年

編集

4月26日、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュにて、ゴール前約42kmの地点で落車しリタイヤ[14]、左肩甲骨先端の陥没骨折と左肋骨上部の骨折を負った[15]

ブエルタ・ア・エスパーニャ

編集

ブエルタ・ア・エスパーニャに初出場。総合成績65位で完走を果たし、日本人として初めて全グランツールを完走した選手となった。

移籍

編集

2015年10月15日、2016年シーズンよりランプレ・メリダへ移籍することが発表された[16]

2016年

編集

212529647

ツール・ド・フランス

編集

6度目の出場となったツール・ド・フランスでは、第6ステージでヤン・バルタとともに逃げに乗り、2012年以来4年ぶりの敢闘賞を獲得。最終的に総合116位で完走を果たした。

2017年

編集

バーレーン・メリダへ移籍

2018年

編集

日本ナショナルチームとしてツール・ド・台湾に出場し、総合優勝・アジアンリーダー賞を獲得

2022年

編集

拠点をフランスからアンドラ公国に移した[17]全日本自転車競技選手権大会個人ロードレースにて、2013年以来9年ぶりの優勝。

主な実績

編集

2005

 U23 & 

2006

 3

U23 14

3

2007

    

 2

2

 31(4)

3

 1(7)

2008

 2(12)

 31(2)

 3

2009


129

25

4 9

2010


93

53


112

116

 9

5

2011

31
 

4

 2

2012


  41

16 3

18 41

84

48

 

2013

    


99

 2

2014

10


128


65

2015


65

2016

36
2


   6


27

2017

 3

2018

 

  

2019

 

2021

3561538[18]

2022

    

出演

編集

テレビ

編集

世界を知るロードレーサー

  • 東京VICTORY(TBS、2020年3月7日)

脚質

編集

本人も「好きなのは逃げ」と常に語るほどの逃げが得意なライダー。きちんとローテーションすれば2012年ツール・第4ステージのように200km以上を実力で逃げ切るほどの巡航力を誇る。それに加え単独での逃げアタック能力(2009年世界戦、2010年ジロ)、ゴールスプリントでのスプリンター並みのパワー(2009年ツール)をみせるなど、短距離でも鋭い足を誇る平地型のパンチャーといえる。そのため過去にはチーム内でエーススプリンターであるウイリアム・ボネのアシストとして(新城が発射台役)動くオーダーが多いが、逃げが許される状況では積極的なレースを見せていた。さらに近年はヴォクレールの山岳アシストを努めるなど、山岳区間でも無難な走りを見せていることから、中規模のステージレースではエース格のポジションを任されている。

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 敢闘賞獲得は2009年の別府史之以来2人目だが、別府は最終ステージのため表彰台に上がれなかった。
  2. ^ 世界選手権ロードレースにおける日本人選手最高順位は、1936年のアマ部門における出宮順一の7位
  3. ^ 別府は最終ステージでの獲得のためステージ敢闘賞の表彰がなく、次のステージがなかったので赤ゼッケンで走ることはなかった。

出典

編集


(一)^ . 20081092010109

(二)^ 2009615

(三)^ news.com (2009630)

(四)^ . : p. 18. (200985) 

(五)^ 

(六)^ 

(七)^ 2 - Goostyle 2010114

(八)^  -  201251

(九)^  - cyclowired.jp 2012817

(十)^   - cyclist 2013624

(11)^ 2 - cyclowired

(12)^   - cyclist 2013629

(13)^  10 - cyclist 2014421

(14)^  . ciclowired (2015427). 2015618

(15)^ 2 . ciclowired (2015618). 2015618

(16)^ . cyclowired (20151015). 20151015

(17)^    20221014

(18)^   35 84. . (2021725). https://web.archive.org/web/20210724211049/https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210724/k10013157711000.html 

外部リンク

編集