日本軍支配下のマレー半島華僑虐殺

日本軍支配下のマレー半島華僑虐殺(にほんぐんしはいかのマレーはんとうかきょうぎゃくさつ)は、太平洋戦争中にマレー半島で主に華僑を対象として起こった日本軍による組織的・計画的とみられる虐殺事件。

経過概要

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194112825551,100km1942131[1]簿[2]簿簿[3]

215219寿

2521西西[2]25Parit Sulong Massacre

19411120調113194221411[1]

251941125[4][2]

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原因

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 調西[1]西18[2]

25[1][5]19394[1]

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12[6][7]1942318[8]

戦犯裁判

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マレー社会への戦中・戦後の影響

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シンガポールでの華僑粛清・虐殺はマレーでの華僑の抗日活動を沈静化させるどころか、華僑の日本軍への不安と不信を惹き起こし、抗日団体に参加する者が激増した。初期こそゲリラ側の武装は貧弱であったものの、1943年半ばを過ぎた頃には英軍の抗日ゲリラへの支援の本格化によりゲリラ側の武装も飛躍的に向上したとされる。しかし、ゲリラ側は寧ろ戻ってくる英軍を警戒、それに備え極力武力を温存することを図っていたという。

英軍は現地領主であるスルタンとの関係を重視していたが、太平洋戦争中、日本軍もスルタンとの関係を重視、また、マレー人を優遇し、下級官吏や警官に採用、統治や華僑弾圧に協力させ、分断統治を図った。その結果、既に太平洋戦争中に、中国系の多い抗日ゲリラ側によるマレー人の襲撃も起こり、中国系・マレー系相互の集落虐殺も始まっていたとされる。

さらに、日本降伏後、潜伏していた共産主義者華僑を主体とする抗日ゲリラが表に出てくると、彼らは公然と中国系・マレー系を問わず対日協力者の報復・処刑を実施した。その結果、マレー人が殺害されたことに憤激するマレー人による中国人集落の襲撃・殺戮、さらにまたその報復といった形で相次ぐこととなった。その後、現地スルタンらの介入もあり、1946年3月頃には住民間どうしの殺戮争いは沈静化したものの、抗英に転換したゲリラと英軍・その使役するマレー人警官らとの間での虐殺も起こり、独立後は英軍に代わってマレーシア軍との戦いに引き継がれていった。

英国植民地政府と共産系独立派勢力との対立という性質をもともと孕んでいたとはいえ、日本軍が火をつけたともいえるマレー系・中国系の住民対立は戦後長らくマレーシア社会に影を落とし、一般住民の間においてさえ、独立後もそれぞれを代表する民族間でときに死者も出る激しい争いを惹き起こす政治対立として長い間残った。

戦後における再確認、賠償金問題と戦後補償

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1947 1984[1]

1960[9]1961[10]302[11]

1976[12]1980[13]1990[14]

戦後著作をめぐる議論

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5


『マラヤの日本軍』(1989)株式会社青木書店 共編:高嶋伸欣、林博史

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19881

[15][16]

[17][18]

『BC級戦犯』(1990-1991新聞連載)中国新聞社 執筆:御田重宝

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199085BC5199133調[19]10[20][21]

#BC

『日中戦争いまだ終わらず マレー「虐殺」の謎』(1991)株式会社文藝春秋 著:中島みち

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 ##

[22]198819901,474[23][24](20001680[8]

イロンロンの虐殺者数について

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20KampongKampung1934[25]19361939[26][27]19374018[22]1937791943[24][28]5宿退西2km[29][30]JelundongJelondong西西3~4km[31][32][22]1/2 ((111/60)) 

[22][29][33][32][34]



[22][34]

YYYY[22]Y[28]YY[28]Y

New villageChinese new villages[35]Jelundong[36]

3調TBS[37]

日本軍兵士の残虐行為について

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[22]

姿45[22][22][1][24]

『マレーシア虐殺報道の奇々怪々』(1992年8月号『正論』、『昭和史の謎を追う 上巻』 著:秦郁彦

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1988

BC#BC

[38][16]

脚注

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(一)^ abcdefghij 199253037,49,46,212,240-242,220-223,225-226,234-235,214-216,248 

(二)^ abcd 1976815976,975,975 

(三)^ ab1998323179-186,250 

(四)^ abc    2007220187,186,188 

(五)^ 1030  19719132

(六)^  201012835 

(七)^ 1991715 

(八)^ ab   702009225151 

(九)^   19634232

(十)^  10 6019675267

(11)^ 調  19679211

(12)^   1976683

(13)^  19848103

(14)^   1996816

(15)^   201012899 

(16)^ ab   198971207-209,18-19 

(17)^   1992530287-288 

(18)^  201541083 

(19)^  199165 

(20)^  19911016

(21)^  19911016

(22)^ abcdefghi1991715316-323,149-150,147,144,86,370,422,417-418,418 

(23)^ 1992530290 

(24)^ abc (5 1992).   .  () 33(5): 85,83. 

(25)^  202111233 

(26)^ 貿20. 貿(ITI). 2023115

(27)^ Eric Lim. Titi New Village. Museum Volunteers, JMM. Museum Volunteers, JMM. 2023115

(28)^ abc1998323239-240,245,241-242 

(29)^ ab19897111,24 

(30)^ Map of Killing Field. 2023115

(31)^ Kampong Jelundong Map. maplandia. maplandia.com. 2023118

(32)^ abGoogle . Google . Google. 2023118

(33)^ Bukit Getah Titik. Google . Google. 2023115

(34)^ ab亿 - .  Sin Chew Daily. . 2023119

(35)^  P.81.  . . 2023115

(36)^ . ONLINE. 西. 2023115

(37)^  1989811 6

(38)^  ︿19991210411-412 

注釈

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  1. ^ 今日では理解しにくいかもしれないが、この種の「日本人(日本軍)はそんな残虐なことはしない」という論法は、この当時よく見られた。第25軍はその後スマトラに移動し、別の司令官の下で、後に「日本の穴(「日本人の穴」と訳されることも)」と呼ばれる地下要塞とも思える地下壕をブキティンギに建設したが、その完成後、働いていた労務者を機密保持のために皆殺しにしたようだと現地では伝えられていた。これについて、この問題に取組んでいた田上和平が、日本側関係者が異議を唱えていることを、この話を日本に紹介した一人である倉沢愛子教授に書き送ったところ、「虐殺の事実がないのであれば抗議すべきと思う」、その場合には「日本軍がそんなことをする筈はないという論では難しいので、工事関係者が理論的に説明するのがよい」とのアドバイスを、いったんは受けたとされる(『大東亜戦争とインドネシア』(2002:朱鳥社)P.63-64著:加藤裕)。 また、秦郁彦は、田中卓がドストエフスキーの作品にトルコ兵の残虐性について類似の赤ん坊刺殺の説話があってそれが起源ではないか(だから、日本人の話ではない)としていることを紹介している(『昭和史の謎を追う 上巻(文庫本)』(1999:文藝春秋)P.412著:秦郁彦)。 この種の「日本人がそんなことをする筈はない」論は、当時盛んに使われていたようである。