日野西資子
室町時代の貴族。後小松天皇の後宮、女院。従二位。子に理永女王︵1408.10.27-1448.2.4、長女、大聖寺門跡、景愛寺主︶
日野西 資子︵ひのにし すけこ、至徳元年/元中元年︵1384年︶ - 永享12年9月8日︵1440年10月3日︶︶は、室町時代の貴族。後小松天皇の後宮、女院。称光天皇の母。後花園天皇の准母。日野西資国の娘。権大納言日野資教養女。院号は光範門院。
日野西 資子 | |
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続柄 | 後小松天皇後宮、称光天皇生母 |
称号 | 光範門院 |
身位 | 准三宮、女院 |
出生 |
至徳元年/元中元年(1384年) |
死去 |
永享12年9月8日(1440年10月3日) |
配偶者 | 後小松天皇 |
子女 | 称光天皇、小川宮、理永女王 |
父親 | 日野西資国(養・日野資教) |
生涯
編集
応永7年︵1400年︶、伯父権大納言日野資教の養女として後小松天皇の後宮に入り、応永8年︵1401年︶3月29日に躬仁親王︵のち実仁、称光天皇︶、応永11年︵1404年︶皇子︵小川宮︶、応永15年︵1408年︶理永女王をもうける。応永19年︵1412年︶、実仁親王が即位。応永24年︵1417年︶1月、従二位。翌25年︵1418年︶、御所の女官の新内侍の懐妊騒動の中で、資子がかつて松木宗量と関係していたことが発覚し、宗量は処罰されたという[1] 。応永32年︵1425年︶7月29日、准三宮、女院となり、光範門院と号した。正長元年︵1428年︶、称光天皇が嗣子なくして崩御、後花園天皇の即位により皇統は伏見宮の系統に移った。永享5年︵1433年︶後小松天皇が崩御し、出家。永享12年︵1440年︶9月8日、57歳で薨去。