- 1923年(大正12年)9月1日 - 進水(浦賀船渠建造)。進水時の名称は「第八駆逐艦」。
- 1924年(大正13年)4月1日 - 「第八号駆逐艦」に艦名変更。
- 1928年(昭和3年)8月1日 - 「早蕨」に艦名変更。
- 1932年(昭和7年) 12月5日 - 台湾海峡基隆北方120浬(推定)で沈没。竣工以来の上部重量増加による復元性悪化を原因とする転覆事故と推定された。
1932年12月3日、早苗、早蕨、呉竹、若竹の駆逐艦四隻で台湾の馬公へ向け呉港を出航。同年12月5日、富基角の北約100浬の海上で暴風雨に遭遇して煙突から浸水して機関が停止、航行不能に陥り転覆したものと推定されている。同行した駆逐艦のほか、馬公より巡洋艦北上、五十鈴も出動して救助にあたったが、当日中に救助された者は乗組員120人のうち14人にとどまった[1]。
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 柳原信男 少佐:1924年7月24日 - 1925年12月1日[3]
- 須賀彦次郎 少佐:1925年12月1日 - 1927年1月20日[4]
- (兼)藤田類太郎 少佐:1927年1月20日 - 6月20日[5]
- (兼)勝野実 少佐:1927年6月20日 - 8月10日
- 手束五郎 少佐:1927年8月10日 - 1929年11月1日
- 秋山輝男 少佐:1929年11月1日 - 1930年11月20日
- (兼)橘正雄 少佐:1930年11月20日 - 1931年10月5日[6]
- 門田健吾 大尉:1931年10月5日[6] - 1932年12月5日殉職
- ^ 駆逐艦「早蕨」、台湾沖合で沈没『東京日日新聞』昭和7年12月5日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和6年-昭和7年』本編p47 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『官報』第3312号、大正12年8月14日。
- ^ 『官報』第3982号、大正14年12月2日。
- ^ 『官報』第18号、昭和2年1月21日。
- ^ 『官報』第142号、昭和2年6月21日。
- ^ a b 『官報』第1432号、昭和6年10月6日。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』普及版、光人社、2003年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』