木庵性瑫
1611-1684, 江戸時代前期に中国・明から渡来した臨済宗黄檗派の僧
木庵性瑫 | |
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万暦39年2月3日 - 貞享元年1月20日 (1611年3月16日 - 1684年3月6日) | |
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諡号 | 慧明国師 |
生地 | 福建省泉州府晋江県 |
宗派 | 臨済宗黄檗派(黄檗宗) |
寺院 | 太平寺、福済寺、普門寺、黄檗山萬福寺 |
師 | 費隠通容、隠元隆琦 |
弟子 | 鉄崖道空 |
生涯
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16歳で出家して開元寺の印明の門に入った。崇禎2年︵1629年︶に得度し、杭州や天童山・西湖等を歴参して、28歳の時には、金粟山の費隠通容に参禅した。費隠の許で、副寺・侍者から知賓を経て維那にまでなった。その後も、紹興や天台山等を遍歴した。
順治5年︵1648年︶、天童山の費隠の許に行こうとするも戦乱のために果たせず、中国黄檗山に登り隠元隆琦からその法を受けた。順治7年︵1650年︶より剣石の太平寺に晋住した。順治10年︵1653年︶には太平寺の住持を即非如一に譲った。
順治11年︵1654年︶に来日していた隠元に招かれ翌順治12年︵明暦元年/1655年︶に来日、長崎の福済寺の住持となった。万治3年︵1660年︶に摂津国の普門寺、寛文元年︵1661年︶に山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、寛文4年︵1664年︶9月4日、隠元の法席を継いだ。寛文5年︵1665年︶、江戸にくだり4代将軍徳川家綱に謁見し、優遇された。江戸紫雲山瑞聖寺を初め10余寺を開創し、門下も50余人に及んだ。寛文9年︵1669年︶、将軍より紫衣を賜った。
延宝8年︵1680年︶2月、黄檗山の法席を第3代の慧林性機に譲り、山内の紫雲院に隠退した。貞享元年1月20日︵1684年3月6日︶、病により没した。享年74。
能書家としても知られ、その書風は中国人ならではのものがあり、隠元・即非とともに黄檗三筆と称されている。三人には共通した書風があり、隠元の﹁穏健高尚な書﹂・木庵の﹁雄健円成な書﹂・即非の﹁奔放闊達な書﹂と評され﹁唐風﹂あるいは﹁黄檗風の書﹂として珍重されている。
関連項目
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