木汗可汗
生涯
編集
西魏の廃帝2年︵553年︶、乙息記可汗が死ぬと、子の摂図ではなく、弟の燕都が立ち、木汗可汗と号した。木汗可汗は早速柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗の鄧叔子は西魏に亡命した。木汗可汗はさらに西の嚈噠︵挹怛、エフタル︶を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨︵キルギス︶を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海︵渤海?︶以西、西が西海︵アラル海︶に至り、南は沙漠︵ゴビ砂漠︶以北、北は北海︵バイカル湖︶に至るほどとなった。木汗可汗は西魏に鄧叔子の誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、鄧叔子を青門外で殺した。
西魏の廃帝3年︵554年︶、木汗可汗は吐谷渾を襲撃し、これを破る。
西魏の恭帝3年︵556年︶、木汗可汗は宇文泰に娘を嫁がせようとしたが、宇文泰が死去したので断念した。
北周の明帝2年︵558年︶、木汗可汗は北周に遣使を送って方物を献じた。
保定元年︵561年︶、木汗可汗は再び北周に遣使を送って朝貢した。木汗可汗は娘︵阿史那皇后︶を武帝に嫁がせようとしたが、北斉の武成帝からも求婚されており、悩んでいたが、北周の武帝がわざわざ涼州刺史の楊薦・左武伯王慶らを派遣してきて求婚したので、木汗可汗は北周と婚姻することとした。
保定3年︵563年︶、北周の武帝は詔で隋公の楊忠に兵1万を率いさせ、突厥と共に北斉を討伐した。楊忠軍は陘嶺を渡り、木汗可汗は騎馬10万を率いて合流。保定4年︵564年︶1月、北斉の武成帝を晋陽で攻めたが勝てず。木汗可汗は遂に兵を出して大掠して還った。この年、木汗可汗はまた遣使を送り、北斉討伐を請願した。晋公宇文護は洛陽方面に進出し、楊忠は沃野鎮に出て突厥と連合しようとしたが、兵糧が足りず撤退した。
天和2年︵567年︶、木汗可汗はまた北周に遣使を送って朝貢した。
天和4年︵569年︶、木汗可汗は北周に遣使を送り馬を献上した。
木汗可汗は在位20年︵572年︶で卒去し、その弟を立てて他鉢可汗︵タトパル・カガン︶とした。
人物
編集木汗可汗の容貌は、顔が大きくて色が赤く、眼は瑠璃色をしていた。性格は剛暴で勇ましく知恵があった。