東漢坂上子麻呂
記録
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﹃新撰姓氏録﹄﹁右京諸蕃﹂によると、坂上氏は﹁出自後漢霊帝男延王也﹂とあり、東漢氏の有力な支族である。
﹃日本書紀﹄巻第十九によると、欽明天皇31年4月︵570年︶の江渟裙代︵えぬ の もしろ︶の奏上を受け[1]、天皇は越国に漂流した高句麗使節を饗応し、近江国に到着した使節を、山背国の相楽郡︵さがらのこおり︶に用意してあった館︵むろつみ︶に迎え入れている。その際に、子麻呂は錦部大石︵にしこり の おおいし︶とともに使節を護衛し、館で饗応している[2]。
2年後の敏達天皇元年︵572年︶6月、高句麗の副使たちによる、賊の仕業に偽装した大使の殺人事件が発生した。領客︵まろうとのつかさ=接待役︶の子麻呂は翌朝副使たちへを取り調べたが、副使たちは嘘をつき、大使が天皇から下賜された妻を受け入れなかったため、礼に反するとして殺害した、と証言した︵本当のところは、漂着時に土地の豪族に貢ぎ物を与えてしまい、そのことを国王に報告されることを恐れたのである︶。大使の亡骸は礼式をもって葬られ[3]、7月に高句麗の使節たちはかえっていった[4]。