松平忠次
戦国時代の武将。五井松平家4代
松平 忠次(まつだいら ただつぐ)は、戦国時代の武将。五井松平家4代。
松平忠次 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 永正18年/大永元年(1521年)[注釈 1] |
死没 | 天文16年9月28日(1547年11月10日) |
別名 | 弥九郎[1]、外記[1] |
戒名 | 源栄[1] |
墓所 | 愛知県蒲郡市五井の長泉寺[1] |
主君 | 松平広忠 |
氏族 | 五井松平家 |
父母 | 父:松平信長 母:松平家広の娘 |
兄弟 | 忠次、信次 |
子 | 景忠、正幸 |
生涯
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3代・松平信長の子として誕生[1]。母は松平家広の娘[1]。
天文9年︵1540年︶6月6日、織田信秀の軍勢が三河に進攻して安城を攻撃した際、城主松平長家救援のため入城し、織田軍の撃退に功績を挙げた[1]。三河国伊田・羽根の両郷を恩賞として賜ったという[1]。天文14年︵1545年︶にも来攻した織田信秀の軍勢を撃退した安城縄手の戦いで武功を挙げた[1]︵安城合戦︶。
天文16年︵1547年︶9月28日[1]、松平広忠が離反した一族の松平信孝︵三木松平家︶と渡河内において戦った際、忠次は先鋒を承ったが[1]、敵方の鳥居又次郎と戦って討ち死した[1]。享年27[1]。なお、又次郎と忠次は親族︵従父兄弟︶であり[1]、討死の際に忠次が身につけていた青江の刀が父祖相伝のものと知っていたために、又次郎は五井松平家に送り返した[1]。
葬地は愛知県蒲郡市五井の長泉寺[1]。
系譜
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 享年からの逆算。
出典
編集参考文献
編集- 『寛政重修諸家譜』巻第二十七
- 『寛政重修諸家譜 第一輯』(国民図書、1922年) 国立国会図書館デジタルコレクション