松栄俊三
略歴
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新潟県佐渡郡金丸村金丸の舟崎家の出で、相川の素封家松栄家に婿入りした。1889年の相川町の長者番付では、秋田藤十郎・幅野長蔵に次いで養父の松栄治作が3位にランクされている。
1915年早稲田大学商学部を卒業、1918年から町会議員を5期20年務める。この間郡会議員に2回当選。また1923年9月と1935年9月に県議に、高位当選している。相川町長は、1926年8月から1927年7月までと、佐渡鉱山の縮小騒ぎが起きた1928年6月から約1年余、推されて難しい時期の町政を担った。県会議員当時は民政党に属し、同党の県常任幹事・佐渡郡総務など歴任している。佐渡汽船の大株主でもあり、1942年10月から1955年8月まで同社社長、1956年8月から1974年1月まで会長を務めて、越佐航路の改善と発展に努めた。養家が代々味噌の醸造を営んでいたことから、五百石積みの廻船﹁松栄丸﹂を持っていて、東京・北海道へも販路を拡げた。
温厚で誠実な人柄から、戦前に選ばれて佐渡郡教育会長を3期務めている。また、1927年に﹃相川町誌﹄︵岩木拡編︶を刊行、戦後は﹁良寛の母の碑﹂﹁村田文三翁之像﹂などを有志とともに建て、文化的にも業績が多い。晩年は﹁町長在任中に、大先輩森知幾翁の顕彰碑を建て得なかったのが心残り﹂と述懐していた。このほか、相川町民への融資を図るべく相川信用組合︵現新潟大栄信用組合︶を設立し、理事長となった。