梅妃
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経歴
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﹃旧唐書﹄﹃新唐書﹄﹃資治通鑑﹄のいずれにもその名は見えず、作者不詳︵唐の曹鄴という説もある︶の伝記﹃梅妃伝﹄に伝わるだけである[1]。
詩作に才能があり、開元年間、20歳の時に宦官の高力士に選ばれ、玄宗に仕え大いに寵愛を受けた。後宮の女性たちにかなうものがないほどの姿態であり、文芸に長じていて謝道韞と自分を比較していた。部屋の周りに梅を好んで植え、玄宗はそこを梅亭と名付けた。梅の花が咲いた時には、詩を作り花を愛でて、夜までそこにいたと伝えられる。そのため、玄宗から﹁梅妃﹂という名で呼ばれた。この時、7首の賦を作ったことが伝えられる。
宴席の度に玄宗の側にはべり、﹃梅精﹄と呼ばれ、笛と驚鴻の舞に長じていた。梅妃が蜜柑を配っていた時、玄宗の兄弟である王の一人に靴を踏まれたため、すぐに退出した。この時、呼び出しても、玄宗自身が迎えにいっても、理由をつけて出てこなかったという。また、﹁闘茶では陛下に勝てましたが、天下のことなら私が勝負になるものではありません﹂と言って、玄宗を喜ばせた話が残っている。
楊貴妃が後宮に入り、寵愛が奪われはじめ、二人は互いに道を避けて歩いた。梅妃はおっとりした性格だったために争いに敗れ、上陽東宮に移された。玄宗に召されたこともあったが、現場に楊貴妃が現れ、逃げるように帰った話が伝えられる。
その後、召されることはなく、自ら賦や詩を作り玄宗に贈ったが、寵愛は戻ることはなかった。安史の乱の勃発により至徳元載︵756年︶に玄宗が出奔した後、長安に取り残されて、安禄山の兵に殺され、哀れんだものから梅の木の傍に埋められた。後に玄宗によって埋葬されたと伝えられる。
梅樹への愛玩ぶり、闘茶の記述が宋代に流行したものであることなどから、架空の人物説が強いが、楊貴妃を題材にした多くの小説、戯曲において、物語の重要な役割を担っている。
後世において、民間で神格化されて梅の花神として祀られる。
驚鴻記
編集脚注
編集伝記資料
編集- 無名氏『梅妃伝』
参考文献
編集- 村山吉広「楊貴妃」
- 竹村正則「楊貴妃文学史研究」