池田昌豊
徳島藩の仕置家老。蜂須賀山城家10代。子に池田永孝(11代)
池田 昌豊︵いけだ まさとよ、文政5年︵1822年︶ - 明治31年︵1898年︶7月18日︶は、徳島藩の仕置家老。父は家老池田家第9代池田昭訓[1]、子に池田永孝。幼名は政之丞、広之進。通称は登。号は静心斎。
天保13年︵1842年︶家督を相続し藩仕置方となる︵禄高5000石︶。12代藩主蜂須賀斉昌より偏諱を賜って昌豊と名乗る。続く斉裕、茂韶の2代の藩主に仕え、混乱する藩論を勤皇に統一する。
天保14年︵1843年︶新藩主蜂須賀斉裕の家督相続御礼言上の際に、江戸城に登城して斉裕の実兄でもある将軍徳川家慶に拝謁する。文久2年︵1862年︶蟄居中の調達勘定役・志摩利右衛門[2]よりの雪冤書を取次いで翌年、国産調役に復帰させた。慶応3年︵1867年︶に隠居。明治2年︵1869年︶静心斎と号す。
明治10年︵1877年︶、西南戦争の際に蜂須賀隆芳[3]と共に壮兵︵旧藩士出身の志願兵︶を1500人組織したことで政府から賞された。明治31年︵1898年︶没、享年77。