沅州
概要
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560年︵天嘉元年︶、南朝陳により荊州の天門郡・義陽郡・南平郡と郢州の武陵郡を分割して設置された武州を前身とする[1]。575年︵太建7年︶、武州は沅州と改称された[2]。
589年︵開皇9年︶、隋が南朝陳を滅ぼすと、沅州は嵩州と改称された。596年︵開皇16年︶、嵩州は朗州と改称された[3]。
691年︵天授2年︶、武周により巫州が沅州と改称された。沅州は江南道に属し、竜標・朗渓・潭陽の3県を管轄した。725年︵開元13年︶、唐により沅州は巫州と改称された[4]。770年︵大暦5年︶、巫州は叙州と改称された[5]。
1074年︵熙寧7年︶、北宋により叙州は沅州と改称された。沅州は荊湖北路に属し、盧陽・麻陽・黔陽・渠陽の4県と安江・托口・貫保・渠陽・竹灘・洪江・若渓・便渓の8寨を管轄した[6]。
1275年︵至元12年︶、元により沅州に安撫司が置かれた。1277年︵至元14年︶、沅州安撫司は沅州路総管府と改められた。沅州路は湖広等処行中書省に属し、盧陽・黔陽・麻陽の3県を管轄した[7]。1364年、朱元璋により沅州路は沅州府と改められた。
1376年︵洪武9年︶、明により沅州府は沅州に降格した。州治の盧陽県が廃止されて、沅州に編入された。沅州は辰州府に属し、黔陽・麻陽の2県を管轄した[8]。
1736年︵乾隆元年︶、清により沅州は沅州府に昇格した。沅州府は湖南省に属し、芷江・黔陽・麻陽の3県を管轄した[9]。
1913年、中華民国により沅州府は廃止された。