河原者
中世日本の被差別民
河原者の活動
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平安時代の﹃左経記﹄長和5年︵1016年︶正月2日の記述から、当時、死んだ牛の皮革を剥ぐ﹁河原人﹂がいたことが知られる。これが史料上の初出である。
曹洞宗所伝の﹃河原根本之切紙﹄には須菩提が輪廻して犬となり、その淫水が石榴花にふりかかって、そこから生まれたのが河原者の先祖であると記されている。河原者の出自由来を人間にあらざる動植物に求め、それ故に形は人間であっても人間とは見なされないという根拠を示している[1]。
室町時代に入ると河原者の多様な活動が記録に表れるようになる。彼らの生業は屠畜や皮革加工で、河原やその周辺に居住していたため河原者と呼ばれた。当時は屠畜業者と皮革業者は未分化であった。河原に居住した理由は、河原が無税だったからという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説がある。それ以外にも、河原者は井戸掘り、芸能︵能役者、歌舞伎役者‥中世にはない︶、行商、造園業などにも従事していた。
河原者の中には田畑を所有し、農耕を行った例もある。
善阿弥
編集河原者のその後
編集現代語の用法
編集論争
編集脚注
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(一)^ 石川力山﹁中世曹洞宗切紙の分類試論(4) ‐曹洞宗における差別切紙発生の由来について‐﹂﹃駒澤大学佛教学部論集﹄第15巻、駒澤大学仏教学部、1984年10月、152頁、CRID 1050845763162824320、ISSN 0389990X。
石川力山﹁中世曹洞宗切紙の分類試論(11) ‐追善・葬送供養関係を中心として︵補︶‐﹂﹃駒澤大學佛教學部研究紀要﹄第46巻、駒澤大学、1988年3月、128頁、CRID 1050001338231948288、ISSN 04523628。