沼波弄山
1718-1777, 江戸時代中期の陶芸家。萬古焼の始祖として知られる
桑名・船馬町の豪商に生まれる[2]。幼少から覚々斎原叟や如心斎天然に茶道を学んだ[1]。庵号は寸方庵[3]。しばらくは桑名の本宅で楽焼風の作陶を続けていたが[3]、元文年間︵1736 - 40︶に小向村︵現・朝日町小向︶の別邸に窯を築き[2]、宝暦年間︵1751 - 64︶には江戸の別邸︵向島[3]︶にも窯を築いた[2]。弄山自身が作陶に携わっていたというよりは、むしろ窯の経営に携わっていたとされる[2]。安永6年︵1777年︶60歳で死去[2]、法名は西誉方岸道一居士[4]。墓所は桑名市新町の光徳寺にある︵沼波弄山墓 附 沼波家墓所、三重県指定史跡︶[4]。
作風は、和蘭や交趾風の舶来趣味を巧みに加えた温雅なもので、数寄者の好評を博した[1]。彼の作品は後世、江戸萬古または古萬古と称される[1]。弄山の後継者はいないようだが[1]、後代になって、射和萬古、有節萬古、安東焼などが生じた[1]。射和萬古を興した竹川竹斎は、弄山の妻の家系である[4]。
彼は作品に﹁萬古﹂あるいは﹁萬古不易﹂と印したことより、萬古焼と呼ばれるようになった[3]。
脚注
編集外部リンク
編集- 郷土史研究の歴史(3) -沼波弄山について- - archive.today(2012年5月19日アーカイブ分)(インターネット保存事業によるアーカイブのArchive.todayによる魚拓)