渡辺和也 (コンピュータ技術者)
来歴
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1931年、長野県に生まれる[1]。
山梨大学工学部電気工学科を卒業する。その後、国際電気︵現・日立国際電気︶で真空管式無線機の設計を約10年担当した。トランジスタなどのマイクロエレクトロニクスに惹かれ、1965年、それらを手がけていたNECに入社する。当初﹁半導体応用技術部﹂に所属した[1]。
マイクロプロセッサが開発されてNECでも生産されるようになり、ICの検査システム担当だったところで販売部門の部長を命じられて拡販に当たる。マイコンチップが4ビットの時代には編み機やミシンにマイコンを組み込んだ製品をそれぞれのメーカーと共同で開発したりした。8ビットになるとどのような用途に売ればよいのかを模索し、マイコン教室も開いてみたが、座学では受講者の習得が進まないことに気づき、教材用キットとして開発したのがTK-80だった。1976年の販売後、秋葉原のラジオ会館内に﹁Bit-Inn﹂というマイコン専用のサービスルームを開設し、これらによりマイコンブームが起きる。渡辺はさらに本格的なパソコンを出すことを構想、社内の反対を説得して1979年にPC-8001をリリースし、NECがパソコン事業に参入するチームリーダーを務めた[1]。
1981年以降はパーソナルコンピュータ事業部長、同社支配人、日本電気ホームエレクトロニクス専務取締役を経て、1990年にノベル日本法人社長、1997年に同会長に就任した[2]。
1998年より社団法人コンピュータエンターテインメント協会︵CESA︶専務理事ならびにコンピュータエンターテインメントレーディング機構︵CERO︶理事となる[1]。
2021年10月17日、死去[2]。享年90歳。
脚注
編集出典
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(一)^ abcde遠藤論 (2019年8月8日). “TK-80、PC-8001、NECのパソコンはこんな偶然から始まった”. 週刊アスキー︵遠藤諭﹃日本人がコンピューターを作った!﹄からの転載︶ 2021年10月27日閲覧。
(二)^ ab大河原克行 (2021年10月27日). “︻大河原克行の﹁パソコン業界、東奔西走﹂︼﹁NECパソコン生みの親﹂の渡邊和也氏が逝去。TK-80やPC-8001でPC市場の形成に貢献”. PC Watch. Impress. 2021年10月27日閲覧。