濮州
概要
編集
596年︵開皇16年︶、隋により鄆州の一部に設置された。濮州は鄄城・臨濮・濮陽・范の4県を管轄した。605年︵大業元年︶に廃止となり、管轄県は鄆州に統合された[1]。
621年︵武徳4年︶、唐により東平郡鄄城県に濮州が置かれた。742年︵天宝元年︶、濮州は濮陽郡と改称された。758年︵乾元元年︶、濮陽郡は濮州と改称された。濮州は河南道に属し、鄄城・雷沢・臨濮・濮陽・范の5県を管轄した[2]。
北宋のとき、濮州は京東西路に属し、鄄城・雷沢・臨濮・范の4県を管轄した[3]。
金のとき、濮州は大名府路に属し、鄄城・范の2県と雷沢・臨濮・定安の3鎮を管轄した[4]。
元のとき、濮州は中書省に属し、鄄城・范・観城・朝城・館陶・臨清の6県を管轄した[5]。
明のとき、濮州は東昌府に属し、范・観城・朝城の3県を管轄した[6]。
清のとき、濮州は曹州府に属し、范・観城・朝城の3県を管轄した[7]。
1912年、中華民国により濮州は廃止され、濮県と改められた。